野ざらし紀行 全篇詳細解読 音声つき

野ざらしを心に風のしむ身かな

貞享元年(1684年)8月、41歳の松尾芭蕉は住み慣れた深川の庵を後にし、門人の千里とともに一路、東海道を西へ向かいます。

行き倒れになって、道端に髑髏をさらすことになるかもしれない……悲痛な覚悟で旅立った芭蕉と千里。しかし旅は涙あり、ほのぼのあり。悲喜こもごも入りまじる中、多くの名句が生まれることになりました。

このpdf文書では『野ざらし紀行』すべての章・すべての句の原文・訳・詳しい語句解釈を行っています。音声とあわせて『野ざらし紀行』の旅をより立体的に感じていただけます。

目次


野ざらし紀行 旅程1


野ざらし紀行 旅程2


野ざらし紀行 旅程3


野ざらし紀行 旅の概略1


野ざらし紀行 旅の概略2

江戸

千里に旅立て、路粮をつゝまず、「三更月下無何に入」と伝けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月、江上の破屋をいづる程、風の声、そゞろ寒げ也。

野ざらしを心に風のしむ身哉

秋十とせ却て江戸を指す故郷

千里の旅に旅立つに先駆けて、しかし道中の食料も包まず、「真夜中に月の下、何の作為もなく悟りの境地に至ろう」と言ったという、昔の人の杖にすがって、貞享甲子秋八月、隅田川沿いのあばら家を出る時、風の音が、なんとなく心惹かれる感じで寒々していた。

旅の途中で道端に髑髏をさらすことになるかもしれない。それくらいの覚悟で旅立つのだ。風がつめたく、身にしみるよ。

江戸に来てから十回目の秋を迎える。今、故郷伊賀上野に向けて旅立つのだが、もとは異郷だったはずの江戸のことが、かえって懐かしく、第二の故郷ともいうべき場所に思われる。

語句

◆千里…「千里ニ適(ユ)ク者ハ三月糧ヲ聚(アツ)ム」。 ◆路粮…道中の食料。 ◆三更月下無何に入…「三更」は夜を五つの時間帯に分けた「五更」の三番目。午後11時または午前零時からの2時間。「無何」は自然のままで何の操作もしないこと。中国の禅僧広聞の句に「路粮(かて)ヲ齋(つつ)マズ笑ツテ復(ま)タ歌フ。三更月下無何二入ル」(『江湖風月集』)とあるのによる。 ◆貞享甲子…1864年。 ◆江上の破屋…隅田川沿いの庵。天和2年(1183年)の火事の後、再建された。第二芭蕉庵。 ◆「野ざらしを…」…「野ざらし」は道端に捨て去られた髑髏。季語は「身にしむ」で冬。 ◆「秋十とせ…」… 芭蕉は寛文12年(1672年)故郷伊賀上野を出発し、ここまで12年間江戸に住んだ。

箱根

関こゆる日は雨降りて、山皆雲にかくれたり。

霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

何某ちりと伝けるは、此たびみちのたすけとなりて、万いたはり、心をつくし侍る。常に莫逆の交ふかく、朋友信有哉、此人。

深川や芭蕉を富士に預行 ちり

箱根の関を越える日は雨が降って、山は皆雲に隠れた。

霧雨が降って富士が見えないが、かえって富士が見えないこの景色も趣深い。

某千里という人物は、今回旅の助けをしてくれて、いろいろなことを労わってくれ、心をつくしてくれる。常に親しく分け隔ての無い、深い交際をしてくれる。友人に対して誠実であるとは、この人のことを言うのだろう。

深川の庵の前に繁っていた芭蕉の木。置いていくのは心残りだが、しばらく庵の前に開けている富士山の景色の前にあの芭蕉を預け置いて、私たちは旅立つとしよう。

語句

◆関…箱根の関。 ◆「霧しぐれ…」…季語は「霧しぐれ」で秋。 ◆ちり…芭蕉の門人。苗村千里(1648-1716)大和国葛下郡竹内村の人で浅草に住む。通称は粕屋甚四郎,油屋嘉右衛門。芭蕉より4歳年下でこの年37歳。 ◆莫逆…心にへだてない親密な間柄。 ◆朋友信有哉…友人に対して誠実であること。「朋友と交りて信ならざりしか…」(『論語』「学而」)。 ◆「深川や…」 季語は「芭蕉」で秋。


野ざらし紀行 地図1

富士川

富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の哀げに泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたえず、露計の命を待まと捨置けむ。小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

猿を聞人捨子に秋の風いかに

いかにぞや汝、ちゝに悪まれたるか、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなきをなけ。

富士川のほとりを行く時、三歳くらいの捨て子が哀れげに泣いていた。きっと親は自分たちで育てていくことができず、かといってこの急流に赤子を投げ込んで、自分たちだけ浮世をわたっていくことも耐えかねて、露ほどのはかない命が失われてしまう間、捨て置いたのだろう。小萩が秋風に吹き散らされるように、今宵散るだろうか、明日しおれるだろうかと袂から食物を投げてやるに、

猿の声に哀れを感じる人々よ、秋風の中に響くこの赤子の声を、どう感じますか。

いったいお前はどうしたのか。お前は父に憎まれたのか、母に疎まれたのか。いや、父はお前を憎んだのでは無い、母はお前を疎むのではない。ただ天がお前に下した運命の非情を泣け。

語句

◆富士川…山梨・静岡を流れ駿河湾に入る。最上川、球磨川と共に日本三急流の一つ。歌枕。 ◆早瀬にかけて…急流に託して ◆うき世の波をしのぐにたえず…この悲しい世の中の荒波をしのぐことができず。 ◆露計(ばかり) 露のような(はかない命)。 ◆小萩がもとの秋の風…「宮城野の霧吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそすれ」(『源氏物語』「桐壺」)。秋風に吹き飛ばされる小萩に赤子の姿を重ねている。 ◆「猿を聞人~」…杜甫「猿を聞き実に下る三声の涙」(秋興八首)。「猿の声に哀れを感じる人」の意。


野ざらし紀行 地図1

大井川

大井川越ゆる日は、終日、雨降ければ、

秋の日の雨江戸に指おらん大井川 ちり

馬上吟

道のべの木槿は馬にくはれけり

大井川越える日は、一日中雨が降っていたので、

秋の雨続きに、江戸の人々は指折り数えて、私たちのことを、そろそろ大井川にかかったかな、ひょっとして川で足止めを食っているかも、などと話し合っているかもしれないな。

馬の上で吟じた句。

道端に木槿が咲いている、と見る間に馬が首をのばして、むしゃむしゃと木槿を食べてしまった。

語句

◆大井川…駿河と遠江の境にある川。駿河湾に注ぐ。 ◆「道のべの~」…季語は「木槿」で秋。

小夜の中山

二十日余の月、かすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数理いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚く。

馬に寝て残夢月遠し茶の煙

二十日過ぎの有明の月がかすかに見えて、山の麓のあたりはたいそう暗い中、馬の上で鞭を垂れ、はるばる進んできたが、未だ鶏は鳴かない。杜牧が「早行」に詠んだように、まだ夢の中にいる心地のまま、小夜の中山に至って、はっと目が覚めた。

夢の心地のままうとうしながら馬に揺られて来たが、ハッと気づいて辺りを見渡すと有明の月がはるか遠くにかかり、家々からは朝の茶を煮る煙が立ち昇っていた。

語句

◆二十日余の月…陰暦二十日過ぎの月。有明の月。 ◆山の根際…山の麓のあたり。 ◆杜牧が早行の残夢…杜牧(803-853)中国晩唐の詩人。李白より100年ほど後に活躍した人物。杜牧作「早行」に「鞭を垂れて馬に信(まか)せて行く、数理(すり)未だ鶏鳴鳴らず、林下残夢を帯び、葉飛んで時に忽ち驚く、霜凝って孤雁はるかに、月暁にして遠山横たわる、僮僕険を辞するを休(や)めよ、何(いづ)れの時か世路平かならん」。 ◆残夢…まだ夢の名残で夢が続いているような心地。 ◆小夜の中山…歌枕。さよのなかやま。さやのなかやま。静岡県掛川市にある峠。佐夜の中山とも。左右の谷が深く東海道の難所として知られる。西行法師も小夜の中山を越えて歌を詠んでいる。 ◆「馬に寝て~」 季語は「月」で秋。


野ざらし紀行 地図1

伊勢神宮

松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋音信て、十日計足をとゞむ。腰間に寸鉄をおびず、襟に一嚢をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有、俗ににて髪なし。我僧にあらずといへども、髪なきものは浮屠の属にたぐへて、神前に入事をゆるさず、暮て外宮に詣侍りけるに、一の華表の陰ほのくらく、御燈処〃に見えて、「また上もなき峯の松風」身にしむ計、ふかき心を起して、

みそか月なし千とせの杉を抱くあらし

松葉屋風瀑が伊勢にあるのを訪問して、十日ほど滞在した。腰に刀も差さず、襟に頭陀袋も下げず、手には数珠を携えている。僧のようで俗世の塵にまみれているし、俗人であるかと思えば髪を剃っている。私は僧ではないのだが髪の無い者は僧のたぐいとみなされて、伊勢神宮の神前に入ることを許されない。そこで日が暮れてから外宮に参詣したところ、一の鳥居の影がほの暗く、燈台が所々に見えて「この上なく尊い峯の松風」と西行法師が詠んだ情緒も身にしみるほどで、深い感動を覚えて、

月の無い晦日の夜、樹齢千年とも思われる杉を抱くように、嵐が吹いている。

語句

◆松葉屋風瀑…まつばやふうばく。蕉門。伊勢度会(わたらい)の人。垂虹堂と号す。 ◆腰間に寸鉄をおびず…腰に刀さえ差さず。 ◆嚢…頭陀袋。 ◆十八の珠…数珠。全集では珠の数は十八個。 ◆浮屠…ふと。仏陀。僧のこと。 ◆外宮…げくう。衣食住の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る豊受大神宮(とようけだいじんぐう)。内宮(ないくう)は天照大御神(あまてらすおおみかみ) を祀る皇大神宮(こうたいじんぐう)。外宮と内宮は5キロほど離れている。伊勢参りはまず外宮に参詣し次に内宮に参詣するのが順序とされる。 ◆華表…鳥居。 ◆「また上もなき峯の松風」…この上もなく尊い峯の松風。西行「深く入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風」(『山家集』)。

西行谷

西行谷の麓に流あり。をんなどもの芋あらふを見るに、

芋洗ふ女西行ならば哥よまん

西行谷の麓に流れがある。女たちが芋を洗うのを見て、

芋を洗う女たちよ。西行法師であれば、江口の遊女の話のように彼女たちに歌を詠みかけるのだろうなあ。

語句

◆西行谷…伊勢内宮(ないくう)の南方にある神路山の南にある谷。西行隠棲の地と伝えられる。◆「芋洗ふ~」…西行法師と江口の遊女の故事による。西行法師が難波の江口で宿をもとめて「世の中をいとふまでこそ難からめ仮のやどりを惜しむ君かな」と詠んだのに遊女は「世をいとふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ」と返した(『西行撰集抄』)。

其日のかへさ、ある茶店に立寄けるに、てふと伝けるをんな、「あが名に発句せよ」と伝て、白ききぬ出しけるに、書付侍る。

蘭の香や蝶の翅にたき物す

閑人の茅舎をとひて

蔦植て竹四五本のあらし哉

その日の帰り際、ある茶店に立ち寄ったところ、蝶という名の女が、「私の名前で発句を作ってください」と言って白い布を差し出したので、その布に書き付けた。

蘭にとまっている蝶の羽はよい香りがして、まるで蘭の香を焚き染めたようだ。

閑居する人の庵を訪ねて、

蔦を植えて、四五本の竹を植えて、それらを風がざわざわと吹きさわがしている、味わい深い庵の景色だよ。

語句

◆かへさ…帰り際。 ◆「蘭の香や~」…季語は「蘭」で秋。 ◆閑人の茅舎…閑居する人の庵。 ◆「蔦植て~」…季語は「蔦」で秋。


野ざらし紀行 地図1

伊賀上野

長月の初、古郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、はらからの鬢白く眉皺寄て、唯「命有て」とのみ伝て言葉はなきに、このかみの守袋をほどきて、「母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやゝ老たり」と、しばらくなきて、

手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜

九月のはじめ、故郷伊賀上野に帰ってみると、母が亡くなってからすでに久しく、その名残すらない。何事も昔とかわって、兄や姉妹の髪の毛は白く、眉には皺が寄り、ただ「生きてさえいれば」とだけ言って言葉は無く、兄が守り袋をほどいて、「母の形見の白髪を拝みなさい。それにしてもお前の帰省は久しぶりで、お前にとっては浦島が玉手箱を開けるようなものだね。お前の眉もだいぶ白くなったね」と、しばらく泣いて、

母の遺髪を手に取ると、熱い涙で消えてしまうのではないか。秋の霜のように。

語句

◆古郷…伊賀上野(現三重県上野町)芭蕉は29歳寛文12年(1672年)故郷伊賀上野を後に江戸に出た。 ◆北堂の萱草…ほくどうのけんそう。中国で家に北側にある堂で、母が住むものだった。その庭には萱草(わすれぐさ)を植えた。転じて、「母」のこと。 ◆はらから…兄弟姉妹。芭蕉には兄半左衛門のほか、姉一人、妹三人がいた。 ◆このかみ…長兄半左衛門。 ◆浦島の子が玉手箱…芭蕉の久しぶりの帰郷を浦島が玉手箱を開ける昔話にたとえた。


野ざらし紀行 地図2

竹の内

大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内と伝処は彼ちりが旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む。

わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく

大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内という所は、例の千里の故郷であるので、数日留まって足を休める。

綿弓をびんびんと弾く琵琶のような音。その音に旅の心を慰めるのだ。竹やぶの奥の、この閑居なすまいで。

語句

◆葛下の郡…奈良県北葛城郡。 ◆竹の内…当麻町竹内。 ◆「わた弓や~」…「綿弓」は「綿打ち弓」とも。綿打ちをする道具。見た目はまさに「弓」で、弦を指ではじいて綿の繊維をほぐす。打つ時に琵琶のような音がする。

二上山

ニ上山当麻寺に詣でゝ、庭上の松をみるに、凡千とせもへたるならむ。大イサ牛をかくす共伝べけむ。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤の罪をまぬかれたるぞ幸にしてたつとし。

僧朝顔幾死かへる法の松

ニ上山当麻寺に詣でて、庭の松を見ると、およそ千年も経ているかと思われる。大イサ牛を隠すと『荘子』に語られているように、まさに牛を隠すほどの大きな松だ。松に心は無いといっても、寺に庭に植えられている縁によって、斧で切り倒されることから免れているのは、幸いで尊いことだ。

この寺の僧も朝顔も、何度生まれ変わったか知れない。しかしこの松だけは、仏縁に惹かれて千年の齢を保っている。

語句

◆ニ上山…奈良県北葛城郡当麻町と大阪府南河内郡との間にある山。山麓に当麻寺(禅林寺)がある。中将姫の伝説で名高い。 ◆大イサ牛をかくす…「櫟社の樹を見る。その大いさ牛を蔽(かく)す」(『荘子』「人間世篇」)。「イサ」は「キサ」の音便。「櫟社」は神木を社としたもの。 ◆非情…心が無い。有情の反対。木や石など心が無いもの。 ◆仏縁…寺の庭に生えているという縁。 ◆斧斤の罪…「斤」も斧。斧で切り倒される罪。「斧斤に夭せられず、物害する者無し」(『荘子』「逍遥遊篇」)。


野ざらし紀行 地図2

吉野

独よし野ゝおくにたどりけるに、まことに山深く、白雲峯に重り、烟雨谷を埋ンで、山賤の家処ゝにちいさく、西に木を伐る音東にひゞき、院ゝの鐘の声は心の底にこたふ。むかしより、この山に入て世を忘たる人の、おほくは詩にのがれ哥にかくる。いでや、唐土の廬山といはむも、またむべならずや。

ある坊に一夜をかりて

碪打て我にきかせよや坊が妻

一人で吉野の奥をたどっていくと、まことに山が深く、白い雲が峯に重なり、霧雨が谷を埋めて、木こりの家が所々に小さく見え、西に木を切る音が東に響き、寺寺の鐘の音が心の底に染み入る。昔から、この山に入って俗世間を忘れた人の、多くは詩に逃れ歌に隠れた。いやまったく、唐土の廬山というのも、またもっともなことだ。

ある僧坊に一夜を借りて、

砧を打って私に聞かせてくれ。坊の妻よ。

語句

◆烟雨…霧雨。 ◆山賤…木こり。 ◆いでや…いやまさに。 ◆廬山…中国江西省にある名山。古来、文人・僧などが隠棲した。李白も白楽天も隠棲していた。 ◆坊 僧坊。 ◆「碪打て~」 季語は「碪(砧)」で冬。「みよし野の山の秋風さ夜ふけて古里寒く衣うつなり」(飛鳥井雅経)。「万戸衣ヲ打ツノ声」(李白「子夜呉歌」)。

西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方ニ町計わけ入ほど、柴人のかよふ道のわづかに有て、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし。彼とくゝの清水はむかしにかはらずとみえて、今もとくゝと雫落ける。

露とくゝ心みに浮世すゝがばや

若是、扶桑に伯夷あらば、必口をすゝがん。もし是、許由に告ば、耳をあらはむ。

山を昇り坂を下るに、秋の日既に斜になれば、名ある所ゝみ残して、先、後醍醐帝の御廟を拝む。

御廟年経て忍ぶは何をしのぶ草

西行上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方へ二町ほど分け入っていくうちに、柴刈りの人が通う道がわずかにあって、けわしく切り立った谷を隔てている。たいへん尊い。西行の歌にある、あの「とくとくの清水」は、昔に変わらずと見えて、今もとくとくと雫が落ちている。

とくとくと流れ落ちる雫で、試みに浮世の塵を洗い流してみようか。

もし日本に伯夷があれば、必ずこの清水で口をすすぐだろう。もし許由にこの清水のことを告げれば、耳を洗うだろう。

山を昇り坂を下ると、秋の日がすでに傾いてきたので、多くの名所を見残して、まず後醍醐天皇の御廟を拝む。

後醍醐帝の御陵は長い年月を経て、しのぶ草が這ってからまっている。しのぶ草はいったい何を忍んでいるのだろうか。

語句

◆西上人…西行上人。 ◆柴人…柴刈りをする人。 ◆さがしい けわしく切り立っている。 ◆とくとくの清水…「とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなきすまひかな(とくとくと流れ落ちる岩間の苔清水はわずかな水量だが、それでも私のすまいは一人暮らしで、わずかな清水さえ十分すぎるほどだよ)」(西行) ◆扶桑…日本のこと。もとは巨木の意味。中国の伝説で東の海の果てにある国(日本)。 ◆伯夷…中国殷の人物。周の武王が殷を討つ不義をいさめたが容れられなかったので、首陽山(中国陝西省の山)に隠棲し蕨で餓をしのいだが餓死した。 ◆許由…中国の伝説的な王、尭から王位を譲ると言われ、嫌なことを聞いたと潁川(えんせん。中国河南省の川)で耳を洗った。高潔な人物。 ◆後醍醐帝…(1288~1339) €€?南北朝時代の天皇。吉野で南朝を開いた。52歳で吉野で崩御。その御陵は如意輪寺の裏山塔の尾にある。


野ざらし紀行 地図2

不破の関

やまとより山城を経て、近江路に入て美濃に至る。います・山中を過て、いにしへの常盤の塚有。伊勢の守武が伝ける、「よし朝殿に似たる秋風」とは、いづれの所か似たりけん。我も又、

義朝の心に似たり秋の風

不破

秋風や藪も畠も不破の関

大和から山城を経て近江路に入って美濃に至る。今須・山中を経て、いにしえの常盤御前の塚がある。室町時代の連歌師・伊勢の守武が詠んだ「よし朝殿に似たる秋風」とは、いったいどのへんが似ているのだろうか。

保元の乱では父や弟と対立し、平治の乱では敗れて逃げていく途中、尾張で部下に殺された源義朝。この秋風のさびしさも、義朝の無念を思うと、ますますさびしく感じられる。

不破

かの不破の関所は今は跡形も無く、藪にも畠にも秋風が吹きすさんでいる。

語句

◆います・山中…「今須」は中仙道の宿場町で不破の関の西。滋賀との境界近く。山中はその東。今須も山中もともに岐阜県不破郡関ヶ原町。 ◆常盤…源義朝の愛妾常盤御前。絶世の美女の誉れ高かった。義経の母。夫義朝が1159年平治の乱に敗れると今若、乙若、牛若の三子を抱いて大和に逃れるが、母が六波羅に捕まったときき、京都に戻って名乗り出る。平清盛に愛されたと伝えられる。 ◆伊勢の守武…荒木田守武(1473~1549)。室町時代の連歌師。伊勢神宮の神官荒木田守秀の九男として生まれ、山崎宗鑑に連歌を学ぶ。山崎宗鑑と並び俳諧の祖と言われる。 ◆よし朝殿に似たる秋風…荒木田守武の『守武千句』に「月見てやときはの里へかかるらん・よしとも殿ににたる秋風」。◆「義朝の心に似たり~」…源義朝は1156年保元の乱では父為義や弟為朝と戦い、平治の乱では敗れて逃げていく途中、尾張で譜代の部下長田忠到に殺された。 ◆不破…関ケ原町にある不破の関跡。伊勢の「鈴鹿の関」、越前の「愛発(あらち)の関」とともに設置された「三関」の一つ。673年天武天皇によって都(飛鳥浄御原宮)を防衛するため鈴鹿関、愛発関とともに設置された。古く不破の地は壬申の乱の艪ニなり、関が原の合戦の舞台ともなった。関じたいは奈良時代末期に廃止され、能院法師が訪れた時にはすでに荒れ果てていた。 ◆「秋風や~」…「人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにし後はただ秋の風」(藤原良経)を踏まえる。

大垣

大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、

しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮

大垣に泊まった夜は、谷木因の家の客となった。武蔵野を出発した時、「野ざらしを」の句を詠み心に悲痛な覚悟を抱いて旅立ったので、

どうにか死ぬことはなく、生きたまま旅寝を重ねてきた。そのあげく、ここ大垣で宿をとっている秋の暮れだ。

語句

◆大垣…岐阜県大垣市。今も縦横に水路が走る。『おくのほそ道』の結びの地でもある。 ◆木因…谷木因(1646-1725)。大垣の船問屋。通称は九太夫。芭蕉とはともに北村季吟の門下であったことから交流があった。井原西鶴や大淀三千風とも交流があった。


野ざらし紀行 地図2

桑名

桑名本統寺にて

冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす

草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちに、浜のかたに出て、

明ぼのやしら魚しろきこと一寸

桑名本統寺にて

雪の中に牡丹が咲き千鳥が鳴く。千鳥はさながら冬のほととぎすといったところか。

旅寝することにも飽きてきたので、まだほの暗いうちに浜の方へ出て

ほのぼのと明け行く海岸の風景。その中に、一寸ほどの大きさの白魚が打ち上げられているのが浮かび上がって見える。

語句

◆桑名…揖斐川(いびがわ)河口に開けた城下町。現三重県北部。東海道の宿場があった。◆桑名本統寺…東本願寺の別院。芭蕉が訪れた時の住職は大谷琢恵(俳号古益)。北村季吟派。 ◆「冬牡丹~」…「冬牡丹」は冬に咲く牡丹。本来牡丹の季節ではないのに牡丹が見れた所に感動がある。それを本来夏のものであるほととぎすのイメージで千鳥を見ている。

熱田

熱田に詣。

社頭大イニ破れ、築地はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえて其神と名のる。よもぎ・しのぶ、こゝろのまゝに生たるぞ、中ゝにめでたきよりも、心とゞまりける。

しのぶさへ枯て餅かふやどり哉

熱田神宮に参詣する。

境内はたいそう荒れ果てており、土塀は倒れて草むらにかかっている。あちらに縄を張って末社の跡をしるし、こちらに石を置いて何々の神の御座所としている。蓬・忍草が思いのままに生えしげり、かえってちゃんとしているよりも、心惹かれるものがある。

忍草さえ枯れてしまった神社の茶店で、わずかに餅を買って腹を見たし、わびしい情緒をしみじみ味わうのだった。

語句

◆熱田…熱田神宮。名古屋市熱田区。三種の神器の一つ草薙神剣をご神体とする。◆社頭 神社の境内。芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で訪れた貞享元年には荒れ果てていたが、二年後の『笈の小文』の旅ではきれいに改修された。 ◆築地…土塀。 ◆小社…境内に祀られている末社。

名護屋

名護屋に入道の程、風吟ス。

狂句木枯の身は竹斎に似たる哉

草枕犬も時雨るかよるのこゑ

雪見にありきて

市人よ此笠うらふ雪の笠

旅人をみる。

馬をさへながむる雪の朝哉

海辺に日暮して

海くれて鴨のこゑほのかに白し

名古屋に入る道の途中、句を吟じた。

狂句を詠みながら旅をしているわが身を見ると、あの仮名草子の主人公竹斎にも似ているなあ(竹斎は狂句を詠みながら諸国遍歴を続けるやぶ医者)。

時雨がふりしきる夜。旅根の枕に、犬の声が響いてくる。犬も時雨のわびしさに耐えかねて鳴いているのだろうか。

雪見にうかれ歩いて、

町の人々よ、この笠を売りましょう。雪をかぶった、風流な、雪の笠ですよ。

旅人を見る。

雪の朝は、何もかも新鮮に見えて、普段は気にも留めない馬の姿にも目がいくほどだ。

海辺に一日中すごして、

海を見ているだけで今日は日が暮れてしまった。沖のほうから鴨の声がほの白い感じで聞こえてくる。

語句

◆風吟…詩歌を吟ずること。 ◆「狂句木枯の~」…連句『冬の日』の巻頭の句。後に「狂句」をはぶく。「竹斎」は仮名草子『竹斎』の主人公の藪医者。狂句を詠みながら全国を渡り歩く。名古屋も作中で訪れた。芭蕉は自分を竹斎と重ね合わせている。 ◆「草枕~」…「草枕」は旅寝のこと。「時雨る」は時雨が降ることに加えて、涙を流す暗示。 ◆ありく…うかれ歩く。


野ざらし紀行 地図2

伊賀上野ふたたび

爰に草鞋をとき、かしこに杖を捨て、旅寝ながらに年の暮れければ、

年暮ぬ笠きて草鞋はきながら

といひゝも、山家に年を越て、

誰が聟ぞ歯朶に餅負ふ丑の年

ここに草鞋をとき、あちらに杖を捨てて、旅寝のままに年が暮れてしまうと、

笠を着て、草鞋をはいて、旅のいでたちのままに、年は暮れてしまった。

と言いつつも、山里の家に年を越して、

いったい誰の婿だろうか。牛の背中に、羊歯を添えた鏡餅を乗せて、その牛を追い行くのは。まさに丑年の、正月のこの山里に。

語句

◆「誰が婿ぞ~」…「歯朶(しだ)」は「羊歯」。シダ植物の総称。餅に添える。「負ふ」と「追ふ」、「牛」と「丑」が掛詞。


野ざらし紀行 地図3

奈良

奈良に出る道のほど

春なれや名もなき山の薄霞

二月堂に籠りて

水とりや氷の僧の沓の音

奈良に出る道の途中、

もう春なのかなあ。大和路をたどると、名の知れた山々はもちろん、名も無い山にさえ薄霞が立って、趣深く思えるよ。

二月堂に籠って、

奈良の東大寺ではお水取りの儀式が行われている。深夜の寒々とした堂内を忙しく働く白衣を着た僧の姿。堂内に高らかに響く木沓の音。いかにも厳かな空気をかもし出している。

語句

◆二月堂…奈良東大寺の二月堂。旧暦2月1日から14日間「お水取り(修ニ会)」が行われるのでこの名がある。 ◆「水とりや~」…「水とり」は奈良東大寺の「お水取り」(修ニ会)。旧暦2月1日から14日間行われ、特に7日と12日の夜には堂のかたわらの閼伽井屋(あかいや)の中の若狭井(わかさい)から水を汲み取る儀式が行われる。 「氷の僧」は寒々とした深夜の堂内をめぐる白衣を着た僧をこう表現した。一説に「籠りの僧」の聞き間違いとも。 「沓の音」は僧の履く木履の音。

京にのぼりて、三井秋風が鳴滝の山家をとふ。

梅林

梅白し昨日や鶴を盗れし

樫の木の花にかまはぬ姿かな

京にのぼって、三井秋風の鳴滝の山荘を訪れた。

梅林

見事な白梅ですね。梅といえばいにしえの詩人林和靖が梅と鶴を愛した故事が思い出されますが、ここには梅はあるが鶴の姿は見えません。昨日にでも人に盗まれたのでしょうか。

樫の木が一本立っていますね。この庭には美しい花が多くある中で、他の花々には目もくれず、凛とした姿で立つ樫の姿。まるでこの館の主人のようです。

語句

◆三井秋風…1646~1717。名は六右衛門時次。談林派の俳諧師。鳴滝(京都右京区)に別荘があり、多くの俳人が出入りしていた。越後屋呉服店を開いた三井高俊の3男重俊の子で,呉服商の釘抜三井家をつぐ。 ◆「梅白し~」…中国北宋の隠士林和靖(りんわせい、林逋 967-1028)の故事に基づく。林和靖は西湖の孤山に隠棲し、梅を妻にみたて、鶴を子に見立て、生涯独身を通したという。この句は三井宗風を林和靖に見立てた挨拶の句。 ◆「樫の木や~」…庭に立つ樫の木を隠棲の三井秋風に見立てた挨拶の句。

伏見

伏見西岸寺任口上人に逢て

我がきぬにふしみの桃の雫せよ

伏見西岸寺任口上人に逢って

私の衣に、桃の名所伏見の花の雫をしたたらせるように、任口上人よ、貴方のすばらしい教えや徳を私に授けてください。

語句

◆伏見西岸寺…伏見油掛町にある浄土宗知恩院の末寺。正式には油懸山地蔵院西岸寺。 ◆任口上人…西岸寺の三世住職。任口は俳号。1606~1686。 ◆「我がきぬに~」…伏見は江戸時代伏見城の跡地に桃が植えられて以来、桃の名所。この句は桃の花のしずくに、任口上人の教えや徳を重ねた挨拶の句。

 

大津

大津に至る道、山路をこえて

山路来て何やらゆかしすみれ草

大津に行く道の途中で山路を越えて

山道に来てふと見るとすみれ草が咲いている。なんとなく趣深い。

辛崎

湖水の眺望

辛崎の松は花より朧にて

琵琶湖を眺めて

近江の名勝辛崎の松は琵琶湖のほとりにあって、桜花よりいっそう霞んで見える。

語句

◆「辛崎の~」…「辛崎」は琵琶湖西岸。大津の北。「辛崎の松」は唐崎神社の「一つ松」。「唐崎の夜雨」は近江八景の一つ。琵琶湖のすぐほとり。季語は「朧」で春。

水口

水口にて、二十年を経て故人に逢ふ。

命二ツの中に生きたる桜哉

水口で二十年を経て旧友と再会した。

旧友と私と。二十年間別々の人生を歩んできた二人だが、その二つの命が今日、再会した。桜咲き乱れるこの季節に。

語句

◆「水口に~」…「水口」は滋賀県甲賀郡水口町。旧東海道の宿駅。「故人」は旧友。芭蕉と同じ伊賀上野出身の服部土芳(はっとりとほう。1657~1630)。この水口での芭蕉との再開の後、俳諧の道に専念する。伊賀上野の土芳の庵は「みのむしの音を聞にこよ草の庵」の句に基づき「みのむし庵」と呼ばれる。


野ざらし紀行 地図4

熱田

伊豆の国蛭が小嶋の桑門、これも去年の秋より行脚しけるに、我が名を聞て、草の枕の道づれにもと、尾張の国まで跡をしたひ来たりければ、

いざともに穂麦喰はん草枕

此僧予に告ていはく、円覚寺の大顛和尚、今年睦月の初、セン化し玉ふよし。まことや夢の心地せらるゝに、先、道より其角が許へ申遣しける。

梅こひて卯花拝むなみだ哉

杜国におくる

白げしに羽もぐ蝶の形見哉

ニたび桐葉子がもとに有て、今や東に下らんとするに、

牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉

伊豆の国蛭が小嶋の僧が、これも去年の秋から行脚していたのだが、私の名を聞いて、旅寝の道連れにしてくださいと、尾張の国まで跡をしたって来たので、

さあ一緒に穂麦を喰らおう。貧しい旅寝、それくらいの覚悟が必要だ。

この僧が私に告げて言うことには、鎌倉円覚寺の大顛和尚(だいてんかしょう)が今年1月のはじめ、亡くなられたということだ。本当だろうか。夢のような心地がするが、まず旅先から其角のもとに言い送った。

梅の花咲くころに亡くなった大顛和尚の人柄をしのんで、今、目の前に咲いている卯の花を拝んで涙するのだ。

杜国におくる

蝶が白芥子の花に止まって一時羽を休めて、ふたたび飛び立っていく。その時蝶が羽をもいで芥子の花の上に残していくような、旅の途上、貴方に迎えられそして今またお別れするのは、そんな身を切られる思いです。

ふたたび桐葉子のもとに泊まって、今や東に下ろうという時に、

牡丹の蘂ふかくこもって蜜を吸っていた蜂がふたたび花びらを分けて這い出し、よその空に飛んでいく。あなたとお別れするのはそんな辛い思いです。

語句

◆蛭が小嶋…静岡県田方郡韮山町。源頼朝が流された場所として有名。 ◆桑門…僧侶。 ◆円覚寺の大顛和尚…鎌倉円覚寺の住職。美濃出身。芭蕉の門弟宝井其角が禅の教えを受けていた。俳号幻吁(げんあ)。 ◆遷化…徳のある僧が亡くなること。 ◆其角…宝井其角(1661-1707)。芭蕉の最古参の門弟。江戸堀江町の出身。 ◆杜国…坪井氏。名古屋の門弟。米商人。貞享2年(1685年)米の空売買に連座して罪を得て家財没収の上、伊良湖崎に流される。芭蕉は特に杜国を愛していた。芭蕉は『笈の小文』の旅で伊良湖崎に杜国を訪ね再会している。 ◆「白芥子に~」…季語は「白芥子」で夏。旅から旅にわたり歩く自分を白芥子に、旅の途上で休ませてくれた杜国を白芥子に見立てた。 ◆桐葉子…林氏。熱田の旅館の主人。蕉門 ?R俳人。


野ざらし紀行 地図4

甲斐山中・江戸

甲斐の国山中に立寄て

行駒の麦に慰むやどり哉

卯月の末、庵に帰りて旅のつかれをはらすほどに、

夏衣いまだ虱をとりつくさず

甲斐の国の山中に立ち寄って、

私を乗せてきた甲斐の馬が、この宿で穂麦をご馳走になった。むしゃむしゃとよく食べている。それを見ていると私も心が慰められる。

卯月の末、深川の庵に帰ってた旅のつかれをはらしているうちに、

旅から帰ってきたら気が抜けてぼんやりしてしまった。旅の間着ていた夏衣を、虱も取らず、そのまま着て、毎日ぼんやりしている。

語句

◆甲斐…熱田から甲斐へのコースは三説ある。①木曽から甲斐へ出た。②東海道の蒲原から富士川をさかのぼり甲斐に出た。③伊豆の三島から御殿場から甲斐へ入った。



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