不破の関・大垣

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やまとより山城を経て、近江路に入て美濃に至る。います・山中を過て、いにしへの常盤の塚有。伊勢の守武が伝ける、「よし朝殿に似たる秋風」とは、いづれの所か似たりけん。我も又、

義朝の心に似たり秋の風

不破

秋風や藪も畠も不破の関

現代語訳

大和から山城を経て近江路に入って美濃に至る。今須・山中を経て、いにしえの常盤御前の塚がある。室町時代の連歌師・伊勢の守武が詠んだ「よし朝殿に似たる秋風」とは、いったいどのへんが似ているのだろうか。

義朝の心に似たり秋の風

保元の乱では父や弟と対立し、平治の乱では敗れて逃げていく途中、尾張で部下に殺された源義朝。この秋風のさびしさも、義朝の無念を思うと、ますますさびしく感じられる。

不破

秋風や藪も畠も不破の関

かの不破の関所は今は跡形も無く、藪にも畠にも秋風が吹きすさんでいる。

語句

◆います・山中…「今須」は中仙道の宿場町で不破の関の西。滋賀との境界近く。山中はその東。今須も山中もともに岐阜県不破郡関ヶ原町。 ◆常盤…源義朝の愛妾常盤御前。絶世の美女の誉れ高かった。義経の母。夫義朝が1159年平治の乱に敗れると今若、乙若、牛若の三子を抱いて大和に逃れるが、母が六波羅に捕まったときき、京都に戻って名乗り出る。平清盛に愛されたと伝えられる。 ◆伊勢の守武…荒木田守武(1473~1549)。室町時代の連歌師。伊勢神宮の神官荒木田守秀の九男として生まれ、山崎宗鑑に連歌を学ぶ。山崎宗鑑と並び俳諧の祖と言われる。 ◆よし朝殿に似たる秋風…荒木田守武の『守武千句』に「月見てやときはの里へかかるらん・よしとも殿ににたる秋風」。◆「義朝の心に似たり~」…源義朝は1156年保元の乱では父為義や弟為朝と戦い、平治の乱では敗れて逃げていく途中、尾張で譜代の部下長田忠到に殺された。 ◆不破…関ケ原町にある不破の関跡。伊勢の「鈴鹿の関」、越前の「愛発(あらち)の関」とともに設置された「三関」の一つ。673年天武天皇によって都(飛鳥浄御原宮)を防衛するため鈴鹿関、愛発関とともに設置された。古く不破の地は壬申の乱の艪ニなり、関が原の合戦の舞台ともなった。関じたいは奈良時代末期に廃止され、能院法師が訪れた時にはすでに荒れ果てていた。 ◆「秋風や~」…「人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにし後はただ秋の風」(藤原良経)を踏まえる。


大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、

しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮

現代語訳

大垣に泊まった夜は、谷木因の家の客となった。武蔵野を出発した時、「野ざらしを」の句を詠み心に悲痛な覚悟を抱いて旅立ったので、

しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮

どうにか死ぬことはなく、生きたまま旅寝を重ねてきた。そのあげく、ここ大垣で宿をとっている秋の暮れだ。

語句

◆大垣 岐阜県大垣市。今も縦横に水路が走る。『おくのほそ道』の結びの地でもある。 ◆木因 谷木因(1646-1725)。大垣の船問屋。通称は九太夫。芭蕉とはともに北村季吟の門下であったことから交流があった。井原西鶴や大淀三千風とも交流があった。


野ざらし紀行 地図2

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解説:左大臣光永