産後の乳母を見舞う

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原文

そのつとめて、そこを立ちて、下総(しもつさ)の国と武蔵との境にてある太井川(ふといがわ)といふが上の瀬、松里の渡りの津にとまりて、夜一夜、舟にてかつがつ物など渡す。乳母(めのと)なる人はをとこなどもなくなして、境にて子生みたりしかば、はなれてべちに上る。いと恋しければ、行かまほしく思ふに、せうとなる人いだきて率て行きたり。皆人は、かりそめの仮屋などいへど、風すくまじく、ひきわたしなどしたるに、これはをとこなども添はねば、いと手はなちに、あらあらしげにて、苫といふものを一重うちふきたれば、月残りなくさし入りたるに、紅の衣(きぬ)上に着て、うちなやみて臥したる月かげ、さようの人にはこよなくすぎて、いと白く清げにて、めづらしと思ひてかき撫でつつ、うち泣くを、いとあはれに見捨てがたく思へど、いそぎ率て行かるる心地、いとあかずわりなし。おもかげにおぼえて悲しければ、月の興もおぼえず、くんじ臥しぬ。

つとめて舟に車かき据ゑて渡して、あなたの岸に車ひきたてて、送りに来つる人々これよりみなかへりぬ。上るはとまりなどして、行き別るるほど、行くもとまるも、みな泣きなどす。幼心地にもあはれに見ゆ。

語句

■太井川 ふといがわ。現在の江戸川の下流。しかし下総と武蔵の境に流れるのは隅田川。作者の記憶違いか。 ■上の瀬 上流の浅瀬。 ■まつさと 今の松戸市。 ■津 船着き場。 ■かつがつ 「且つ且つ」。不満足ながら。どうやら。やっと。かろうじて。わずかに。とりあえず。急いで。 ■をともなどもなくして 夫までも亡くして。こんな僻地であることに加えて、さわに条件の悪いことにの意。 ■はなれてべちに上る 出産後の穢れを避けるために、作者たちとは別行動で上京する。 ■せうとなる人 兄。「せうと」は「せひと」の音便。 ■手はなち 手を抜いた。 ■苫 茅・萱などを編んだもの。 ■月影 月に照らし出された乳母の姿。 ■さやうの人にはこよなくすぎて 乳母なんていう身分の者には似つかわしくないほど上品に見えて。 ■珍し 乳母は作者を久しぶりに見るので珍しいのである。 ■あかず 満足がいかない。名残惜しい。 ■わりなし 理なし。どうしようもない。 ■おもかげにおぼえて 目の前にいないのにあるように姿が脳裏にあらわれて。 ■くんじ臥しぬ 「屈し」の音便。ふさぎこんで寝てしまった。 ■かき据ゑ かつぎ載せて。

現代語訳

早朝、そこを出発して、下総の句にと武蔵の境にある太井川という川の上流の浅瀬に、松里の渡りの船着き場に泊まって、一晩中、船にてなんとか荷物を渡す。

乳母である人は夫も亡くして、この国境で子を生んでいたので、出産の穢れを避けるとうことで、私たちとは別に上京するのだ。

私はこの乳母のことがたいへん恋しかったので、訪ねていきたく思ったところ、兄である人が私を馬に抱き乗せて、連れて行ってくれた。

皆人は私たちの宿を狩りの宿などと言うけれど、それでも風が吹くのを避けるために幕を引き渡しなどしているのに、一方乳母の泊まっている宿はというと、夫も連れ添っていないので、たいそう手抜きで雑な感じで、苫というものを一重ふいただけのもので、月の光がそこらじゅうにさし入るので、乳母は紅の衣を上にはおって、つらそうに臥している姿が月の光に照らし出されたその様子は、乳母などという身分の人には無いほど上品に見えて、たいそう白く清らかで、乳母は私と久しぶりにあったので珍しく思って私の頭をかき撫でつつ、泣くのを、たいそう不憫に見捨てがたく思うけれど、急いで兄に連れられて出発していく心の内は、たいそう物足りなくてどうしようもない感じだ。

離れた後も乳母のことが脳裏に浮かんできて悲しいので、月を見ていても楽しい気分にはなれず、ふさぎこんで寝てしまった。

早朝、舟に車をかつぎ載せて太井川を渡して、対岸で車を建てて、送りに来た人々は、これより皆帰った。京に上る者は留まりなどして、行き別れることは、行くものも留まる者も、みな泣きなどするのだった。子供心にもしみじみ悲しく見えた。

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解説:左大臣光永

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