平家一門の都落ち

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倶利伽羅峠、篠原と勝利を重ねてきた義仲軍は越前に入ります。

「次はいよいよ都ぞ!!」

1183年(寿永2年)義仲、越前入り
【1183年(寿永2年)義仲、越前入り】

しかし都入りにあたって義仲には一つの懸念がありました。
比叡山延暦寺の存在です。
当時の延暦寺は戦の勝敗を左右するくらい、
たいへんな力を持っていました。

先年の以仁王の乱の時も、清盛は事前に延暦寺に工作して、
平家の敵にならないように根回しをしていました。それくらい、
延暦寺は戦において無視できない存在でした。

そこで太夫坊覚明の提案で、比叡山延暦寺に書状を送ることにします。
源氏につくのか、平家につくのか、
回答いかんによっては比叡山は滅亡することになるぞと。

書状を受け取った延暦寺は協議に協議を重ねますが、結局
落ち目の平家より勢いづく源氏に味方すべしという意見で落ち着きます。

これを知らない平家方は、平家に味方するよう比叡山に書状を送ります。
書状には延暦寺と日吉社を平家の氏寺、氏社とするとまで書いてありました。

しかしすでに延暦寺は義仲に味方することを決めており、
どうにもなりませんでした。

宗盛 建礼門院に都落ちを告げる

寿永2年7月22日、
木曽義仲の軍勢が比叡山東坂本まで迫っているという話が京都に届き、
六波羅は大混乱となります。

1183年(寿永2年)7月22日 比叡山東坂本にせまる義仲
【1183年(寿永2年)7月22日 比叡山東坂本にせまる義仲】

24日、平家棟梁平宗盛は六波羅の池殿平頼盛の舘に建礼門院徳子を訪ね、
平家一門都落ちすることになったことを語ります。

「すでに東坂本には木曽5万騎が押し寄せ、
郎党の楯親忠、書記の覚明が6000騎を率いて比叡山に上り
3000の衆徒と手を結び、都に攻め寄せる勢いです。
どうにかしようと話し合ったのですが、どうにもなりません。
この上は主上と法皇さまをおつれして一門都落ちしたいと思います」

「とにかく、そちのはからいのままに」

建礼門院と宗盛は互いに袖をしぼり涙を流しました。

後白河法皇の雲隠れ

後白河法皇は平家都落ちを事前に察知し、
ひそかに法住寺の御所を抜け出し、鞍馬に逃れます。

後白河法皇、鞍馬へ逃れる
【後白河法皇、鞍馬へ逃れる】

平家の侍橘季康(たちばなのすえやす)者がその晩法住寺殿の宿直でした。
橘季康が御所に近づくと女房たちがおんおんと泣いています。

「何事じゃ?」
「法皇さまの御姿が、どこにも見えないのです」

院の御所 法住寺殿
【院の御所 法住寺殿】

これは一大事と橘季康は駆け出し、すぐに宗盛に報告します。
宗盛はすぐに法住寺にとんできますが、後の祭りでした。
後白河法皇の行方は誰も知りませんでした。

「こうなったら主上だけでも行幸願おう」

翌早朝、6歳の安徳天皇を輿に乗せて、
同じ輿には母建礼門院が乗り込んで、
三種の神器をたずさえて、平家一門西国をめざして落ちていきました。

≫次章「三種の神器」

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