三種の神器

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三種の神器は、神話の時代から伝わる皇位継承のあかしとされる三つの宝物です。ぜんぶそらで言える方はかなりお詳しいですね。草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)です。本来は二種だったとか、いろいろと説があるようですが…。

「古事記」「日本書紀」にこれらの宝物の由来はくわしく描かれています(以下、「古事記」「日本書紀」にもとづく)。

草薙の剣はもと天叢雲剣(あめのむらくものけん)といいました。スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した時に、しっぽの中から剣が出てきます。スサノオノミコトはそれがあまりに立派な剣だったので姉のアマテラスオオミカミに献上します。ヤマタノオロチの頭上にはいつも雲が出ていたことから「天叢雲剣」と命名されました。

八咫鏡と八尺瓊勾玉はアマテラスオオミカミの岩戸隠れの話に登場します。アマテラスオオミカミが岩戸に隠れた際、石凝姥命(イシコリドメノミコト)が八咫鏡を作り、玉祖命(タマノオヤノミコト)が八尺瓊勾玉を作り、これらを榊の木にかけ、御幣とします。

フトタマノミコトが八咫鏡と八尺瓊勾玉をかけた榊の木をふりかざし、アメノウズメが面白おかしい踊りを躍ります。気になって顔を出したアマテラスオオミカミが訊ねると、フトタマノミコトが答えます。「あなたよりずっと尊い神が見えられたからです」と。「えっ、そんなことが」と身を乗り出したアマテラスの前にフトタマは八咫鏡を突き出します。

自分の顔を見て、何て素敵なのかしらもっと見たいと乗り出すアマテラスオオミカミを、力持ちのタヂカラオノミコトがえいっと引っ張り出す…天の岩屋戸の話は日本神話の中でももっとも有名ですよね。

タカマガハラの神々が地上(葦原中国アシハラノナカツクニ)に降りる天孫降臨の際、アマテラスオオミカミはこれら三種の神器を孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に授けます。特に八咫鏡を自分の御霊として祀るようアマテラスオオミカミはニニギノミコトに命じました。

『古語拾遺』によれば、三種の神器は初代神武天皇から9代開化天皇の時代まで宮中に保管されていたということですが、10代崇神天皇の時、宮中にオリジナルを置いておくのは畏れ多いということで神器の魂を込めた形代(かたしろ)を作ります。この形代が皇位継承の証とされる所謂「三種の神器」となったということです。

その後オリジナルの鏡と剣は倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいむら)に遷されます。ついで11代垂仁天皇の時代に、伊勢の神宮に遷されます。

12代景行天皇の時代、景行天皇の皇子日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征するにあたって、叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)より天叢雲剣を授けられます。ヤマトタケルノミコトは東征の途上、相武国の草原で敵から火を放たれます。もはやこれまでという時ヤマトタケルノミコトが剣をふるうと草が薙ぎ払われ、さらに火うち石で向かい火を放って敵を焼き殺しました。

ここから「天叢雲剣」あらため「草薙の剣」となり、その土地の名を「焼津」としました。

ヤマトタケルノミコトの死後、剣は熱田神宮におさめられます。

38代天智天皇の時代、668年新羅の僧道行によって盗み出されますが、道行を乗せた船は嵐にあって難破。剣は日本に戻り、宮中であずかることとなります。しかし40代天武天皇が病にかかったとき、これは剣の祟りだということでふたたび熱田神宮に戻されました。

…ここまでが「古事記」「日本書紀」にある話です。

一方、宮中に置かれた(形代の?)三種の神器は、1185年壇ノ浦の戦いの時、二位の尼が安徳天皇とともに抱いて海に飛び込み、沈んでしまいました。源義経によって鏡と勾玉は発見されたものの、剣はとうとう見つかりませんでした。

そこで84代順徳天皇が即位する時に伊勢の神宮から献上された剣をもって新たな「草薙の剣」としたといいます。

こうした歴史のある三種の神器ですが、現在どこで見られるかというと、どこに行っても見られません。オリジナルの剣と鏡は伊勢の神宮と熱田神宮にひっそりと保管されているそうです。皇居にあるものも箱に入っていて、天皇さえ、見ることは許されていません。

見ただけで目がつぶれたなんて話もあります。『平家物語』にも壇ノ浦の合戦のさなか、八咫鏡をおさめた箱(内侍所ないしどころ)をのぞいた者の目がつぶれ鼻血がたれたと書かれています。

≫次章「忠教都落」

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