万葉集

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今日なお多くの人に読まれていて、
各地で勉強会や講演なども開かれている「万葉集」ですが…

その正確な成立時期、編纂者はわかっていません。

少しずつ修正を重ねながら整えられていき、
大伴家持によって完成したという説が有力です。

全20巻、4500首の歌が収録された、大ボリュームです。
しかも歌の作者は天皇から庶民まで、さまざまな
階層に及び、その出身地もいろいろ。バラエティ豊かです。

書名のゆらい

書名のゆらいは諸説ありますが、
万(マン、ヨロズ)の字を「たくさん」と見て、
「葉」の字を「ことのは」「ことば」と見て、
たくさんの豊かな言葉がつまってます、
言葉の玉手箱ですよという意味だという説が有力です。

歌の分類

歌を大きく分類すると、

恋愛を歌った「相聞」
人の死を悼んだ歌「挽歌」
そのほかの「雑詩」

この三つを柱として、たとえによって気持を歌う「譬喩歌」、
旅の思いを詠んだ「羇旅歌」、
北九州の防衛にあたった兵士たちの気持を詠んだ「防人歌」などがあります。

万葉仮名

大きな特徴として、「万葉仮名」というものがあります。
昔は日本固有の文字というものがなかったんですね。
それで、中国伝来の漢字に無理やり日本語の響きを
あてはめてました。

よくありますよね暴走族のラクガキで。

仏痴霧(ぶっちぎり)とか夜露死苦(よろしく)とか。

あんな感じ。
ああいうのは、万葉仮名の名残といえるかもしれません。暴走族は万葉の民。
そう考えるとパラパラうるさいのも温かい心で許せるかんじですね。

歌の作風から、四期に分かれます。
一期、二期、三期、四期、
それぞれの代表的な歌人の歌を採り上げていきます。

額田王

額田王という女性は、絶世の美女だったとか、天武天皇とその兄天智天皇との間で三角関係にあったとか、謎の多い人物です。ロマンをかきたてられずにはいれません。

舒明天皇の即位(629年)から大化の改新(645)をへて壬申の乱(672)にいたるまで約40年間、天皇中心の国家の基礎がつくられていった時期をもって万葉集の第一期とします。おおらかでのびのびとした歌いっぷりの歌が詠まれました。

今回は万葉集の一期から、額田王の歌を採り上げます。

熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎいでな(額田王)
(意味)熟田津で船に乗ろうとして月の出を待っていると、潮の流れもちょうどいい具合になってきた。さあ今こそ漕ぎ出そうよ。

661年、朝鮮半島では新羅がしだいに力をつけ、日本と同盟関係にあった百済を滅ぼします。日本は百済復興運動を支援するため、難波津から九州に船団を出発させます。

この歌は九州に向かう船路の途中、熟田津(今の愛媛県松山市。道後温泉のあたり?)で船出の機会をうかがっている時に詠まれた歌とされます。

この場にも斉明天皇も中大兄皇子も、いたといいます。イメージ的には斉明天皇以下一同が甲板にそろっていて、

この遠征の成功をいのって、だれか歌を詠むものはありませんか、とかいって(斉明天皇は女帝です)、スと進み出た額田王が、それでは僭越ながら私がと、高らかに歌い上げた、その時ザバーーンと波が立って、よし!出発です、みたいな、そんな気合入る場面でしょうか。

力強い詠みっぷりで、万葉集の中でも特に人気の高い歌です。

柿本人麻呂

「万葉集」の第二期は、壬申の乱(672)から、平城京への遷都(710年)までです。柿本人麻呂の活躍がいちぢるしいです。歌の神様のようにいわれる『万葉集』最大の歌人です。

しかしこの柿本人麻呂、有名ながら謎の多い人物です。持統天皇の時代を中心に宮廷詩人として活躍したといわれています。

東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
(東の野を見ると朝日の光が輝いており、振り返って西を見ると月が沈みかけている)

10歳の皇太子・軽皇子が、奈良の阿騎(あき)の野というところで狩りをされた時に、つきしたがった柿本人麻呂が詠んだ歌です。

ただし、これはただの狩りではありませんでした。

28歳の若さで亡くなった軽皇子の父・草壁皇子を追悼する意味をもった狩りでした。亡くなった草壁皇子も、昔この阿騎(あき)の野で狩りをされたことがあったんですね。

この人麻呂の歌は早朝の狩野の雄大な景色を描きながら、景色だけではなく、そこに亡くなった草壁皇子への哀悼の気持、そして来るべき軽皇子の世を祝福する気持を詠み込んでいます。

沈んでいく月を亡くなった草壁皇子に、のぼってくる太陽を軽皇子にたとえているのです。

この5年後、軽皇子は持統天皇からの譲位を受け、文武天皇として即位します。時に15歳。

与謝野蕪村の句「菜の花や月は東に日は西に」は、
人麻呂の歌と近い情緒を描いています。こちらは単純に景色を歌った句ですが。

山上憶良と大伴旅人

人と人との出会いが、お互いの才能に火をつける。
ありますね。そういうことって。
バチバチっと火花が散るような場面が。

たとえば劉備元徳と 諸葛亮孔明、夏目漱石と正岡子規、
石田三成と島左近…

歴史の中には、いくつもそういう、
ワクワクする、出会いの場面があります。

今回は「万葉集」第三期の中から、
山上憶良と大伴旅人の話です。

山上憶良。社会派歌人として知られます。

世の中の矛盾、理不尽、貧乏、病気、
そして子供への愛情などを歌に詠みました。
あまりほかの歌人が手をつけなかったテーマです。

また秋の七草の歌の作者としても、よく知られています。

秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花(万葉集・巻八 1537)
萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花

山上憶良は遣唐使として唐に留学し、
帰国後、筑前守として大宰府に赴任します。

大宰府は当時、朝鮮や中国との外交で
いろいろと忙しかったところです。

そこへやや遅れて大宰府の長官(太宰帥(だざいのそつ))として
大伴旅人が赴任してきます。憶良にとっては上司です。

どんな上司だろう?気になりますよね。
ねちねち嫌味なヤツだったらヤだな。
ストレスたまるよ…なんて思ったかどうか。

ところが、

話してみると、大伴旅人は和歌や漢文にとても詳しく、
深い趣味をもっていました。

山上憶良と大伴旅人はすぐに打ち解け、
いつも二人つるんでは文学談義に花を咲かせる仲となります。

部下だ上司だという関係を超えて、
魂のまじわりとでも言うんでしょうか。

昔の歌人の優劣を論じあったり、
お互いの作品を批評しあったり…(したのかな?)

そうこうしているうちに二人の周りには歌好きな連中が集まってきて、
一種のサロン…筑紫文壇が盛り上がっていきます。

山上憶良・大伴旅人、ふたりとも、この大宰府赴任中がもっとも作品が多く、
質も高いのです。才能と才能、個性と個性のぶつかりあい。いいですね。
なんかいいじゃないですか。ビカビカっとなにか
インスピレーションの火花が散ったんでしょうか。

憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母もわを待つらむそ

「貧窮問答歌」とならび、山上憶良の歌として「おくららは」…この歌を欠かすことはできません。

宴会を中座する際の、言い訳の歌です。みんなでどっかの屋敷で宴会をしていたんです。ワイワイ盛り上がって、いい気分になっている。ところが山上憶良、では私はそろそろ…帰ろうとします。

ええっ、オクラちゃん、まだ夜は長いよ。そんな、帰るなんてヒドイ。
大伴旅人ガバッと抱きついて、帰らせようとしません。

大伴旅人は、お酒が好きでした。トコトンな、お酒が好きでした。「酒をほむるの歌」なんて連作の歌をつくってるくらいです。そこで引き止められた山上憶良、詠みました。

憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母もわを待つらむそ

今はもう帰りましょう、家では子供が泣います。その母親も私を待っているんです…本当に娘と孫が待っていたのか、そういう設定のもとに詠んだのか、わかりませんが。

あっ、こいつぁうまいこと言った。こう言われちゃあかなわねえ、帰って、家族円満してこいッドーンて背中を押して、帰してくれたという…そんなやり取りがあったかどうかはわかりませんが、山上憶良。宴会を中座する歌です。

憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母もわを待つらむそ

いっぽうの大伴旅人の歌もあげてみます。

験(しるし)なき物を思はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒をのむべくあるらし

そんな思い悩んだって仕方ないじゃないか。この一杯の濁り酒を飲むんだ、そのほうがずっといい。退廃的で乱れたかんじもしますが、この歌は大伴旅人が大宰府に着任直後、妻を失ったあとで詠んだ歌ともいわれます。

亡き妻を思って、悲しみをふりはらうように飲んでいる…と考えると、あわれさも漂って思えます。

大伴家持

『万葉集』第四期は、最後の歌が詠まれた759年まで。
天平文化まっさかりの時代です。

奈良の大仏。正倉院。
興福寺の阿修羅像。国分寺・国分尼寺。

歴史の教科書には巻頭の派手なカラー写真でかならず載ってる、あれですね。

文化がさかえる一方、藤原広つぐの乱や橘奈良麻呂の乱など、
政情不安が高まった時期でもあります。

大伴家持 その出自

大伴家持は万葉集第三期の代表歌人である大伴旅人の息子です。
『万葉集』の編者として知られ、家持自身の歌も『万葉集』には
473首も採られています。

少年時代は父にともなわれて太宰府に行っていました。
730年帰京。父が亡くなると家督をつぎ、従五位下(じゅごいげ)、
宮内少輔(くないのしょうゆう)と順調に出世します。

大伴家持の作風は「越中赴任以前」「越中赴任中」
「越中赴任後」ふつう三期にわけて考えます。

越中守時代

745年から5年間は越中守として北陸に赴任します。
この北陸赴任中に、よっぽど時間があったのか、
地方ののびのびとした空気が創作意欲に作用したのか…
200首以上もの歌をつくっています。

都をなつかしむ歌も見られますが、越中を立ち去る時は
名残を惜しむ歌を詠んでいます。

しなざかる越(こし)に五年(いつとせ)住み住みて
立ち別れまく惜しき宵かも

どこか父大伴旅人が大宰府赴任中に山上憶良と出会い、
才能を開花させたことに通じるものがあるようです。

ちなみに山上憶良の歌は家持も大変に愛好していました。

この家持の越中赴任があったからこそ、今日も富山は万葉の里として
石碑が残っていたり、万葉集ゆかり祭りやイベントをやったり、
「越中万葉」という言葉もあり、「万葉線」という市電が走り、
いろいろと盛り上がっているわけです。

役人としての大伴家持

今日『万葉集』の編者として名高い大伴家持ですが、
役人としてはあまりめぐまれなかったようです。

越中守の任期を終えた751年、
家持は少納言として中央政界に復帰します。
以後、因幡守、太宰少弐などいろいろな役職を歴任します。

しかし政争に巻き込まれることが多く、
死後も藤原種継暗殺事件に連座した汚名をきせられ、
しばらく官籍を剥奪されていました。

代表歌

うらうらに照れる春日に雲雀あがり
情悲しも独りしおもへば

(うららかに照る春の日の中、雲雀があがっていく。
私は独り物思いに沈み、心は悲しんでいる)

この歌は北陸での任期を終え、奈良に戻ってきたころの作品です。
五月病というか、春のユウウツがあふれている感じです。

この頃大伴家持が親しくしていた左大臣橘諸兄が失脚し、
かわって藤原仲麻呂による専制がはじまりました。

よって家持は政治的に苦しい立場に立たされていました。
その苦境も反映しているのかもしれません。

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