平治の乱
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院政とは?
保元の乱に勝利した後白河天皇はすぐに位を
息子の二条天皇にゆずり、自分は上皇となり
院政をしきます。
「院政」ということが、この時代を理解する鍵です。
「院政」とは何でしょうか?
「院政」とは、天皇の父、または祖父が引退して「上皇」となり、
現役の天皇にかわって政治を見る、という仕組みのことです。
「なんのこっちゃ?」という方もいらっしゃるかもですが、
似たようなことはどこの組織でも普通に見られることです。
隠居した先代の社長が会社に来てあれこれ口をはさむ。
社員は内心うぜーなーと思ってるんだけども、言えない。
よく見られる光景です。
天皇家でも、もっと昔の奈良時代とかでも
隠居した天皇が政治に口をはさむということはありました。
しかし「院政」というものがそれらと違うのは、
もっと大々的に、システムとして行ったということです。
「院庁(いんのちょう)」という独自の機関があり、
「北面の武士」という独自の軍事力を持っていました。
清盛や後に西行法師となる佐藤義清(さとうのりきよ)も
かつて北面の武士をやっていたのは有名ですね。
またこの時代の複雑なことには、
今と違って短い期間で天皇が入れ替わります。
時には数年単位で入れ替わります。
すると、一人の天皇の時代に複数の上皇がいる、
という形がありえました。
天皇がいて、その父が上皇で、その祖父も上皇というように。
そういう場合、複数いる上皇のすべてが
院政を行うかというと、そうじゃないです。
実際に院政を行う上皇は一人です。
複数いる上皇のうち、実際に政治に介入する一人の上皇のことを
特に「治天の君」といい、絶大な権力をふるいました。
後白河上皇も「治天の君」として権力をふるうわけですが…
しかし実際に後白河自身が何かするというわけではないです。
何しろ後白河という方は29歳で天皇として即位するまでは
天皇になる可能性もうすく、政治に関心はうすかった方です。
まともな帝王学も学んでいませんでした。
しかし暇ですから、何やってたかというと、歌ってたんですね。
七五調四句の「今様」という、当時の流行歌です。
とにかく歌いました。一日中歌ってました。
喉がすりちぎれてもまだ歌ってました。
また相手が今様の上手ときくと、
どんなに身分が低い相手だろうが、
たとえ河原乞食にだって教えを乞いに行ったといいます。
そうかと思うと
「盗人というものが見てみたい」なんてことを言い出して
逮捕された強盗を舘に招いて盗みの術を教えてもらった、
なんて話も残っています。
そういう、だいぶ破天荒な、変わった方ですから、
政治向きの頭じゃありません。
実際に後白河上皇の下で政治を行ったのは
信西です。
例の、死刑を復活させた男です。
信西と藤原信頼
息子の二条天皇に位をゆずって上皇となった後白河上皇のもとで
入道信西は絶大な権力をふるいます。
荘園整理令を発して全国の荘園を整理するなど、
バンバン政治改革を行っていました。
大寺社だろうが大貴族だろうが、容赦なく土地を没収していきます。
とくに藤原氏…摂関家の土地は厳しく没収しました。
既得権益をおかされるということは恨みを買います。
全国で「信西憎し」の声が高まっていきました。
その急先鋒となったのが後白河上皇のもう一人の側近、
藤原信頼です。キモっ玉の小さい小物です。
しかし生まれは信西よりずっと高い藤原北家(ほっけ)の出身です。
藤原信頼は権力をほしいままにする入道信西に
反感を抱いていました。「ふん、身分いやしき分際で」
だから三角関係なんですよ。
後白河上皇を頂点として、二人の側近…信西と藤原信頼の。
どっちが後白河上皇の寵愛を得るかという。
実際に、藤原信頼と後白河上皇とは男色関係にありました。
信西が後白河上皇に藤原信頼のことを悪く言うにおよんで、
藤原信頼の信西憎しの気持ちは頂点に達します。
信西をぶっ殺しにかかります。
もっとも同僚をただぶっ殺すでは単なる殺人鬼です。
逮捕されてしまいます。
そこでクーデターを起こしました。
後白河法皇と信西のいる三条東殿を襲撃し、
まず後白河法皇の身柄を拘束します。
子の二条天皇ともども、軟禁してしまいます。
その上で、上皇と天皇の身柄を軟禁した上で、
信西を攻めます。信西は逃げていくところをつかまって殺されたとも
自害したとも言われます。
このようにしてクーデターが成功し、
上皇も天皇もわが手中にある。
俺の天下だ!となった藤原信頼でしたが…
特にクーデター後の絵図というものがなかったんですね。
とにかく信西憎しでワッとやっちゃっただけですから。
たとえば後白河の院政を存続した上で
自分が第一の側近として活躍するのか、
だとすればどんな政策を行うのか、
あるいは後白河の院政を停止して、
二条天皇による親政を行うのか。
あるいは天皇も上皇も排除して
自分が頂点に立つのか。
藤原信頼は、なーんも考えてませんでした。
ただ信西をぶっ倒したかっただけです。
だから当初の目的を果たしたら、
やることが無くなっちゃいました。
それで何やってたかと言うと、女をはべらせて
いちゃついたりしてました。
清盛の帰還
そこへ登場するのが平清盛です。
この時清盛は熊野詣でに紀州に行ってましたが、
都でクーデターがおこったことをきき、
いそぎ都にもどってきます。
そしていったんは信頼に従うそぶりを見せて
油断させておいて、そのスキに二条天皇と後白河上皇の身柄
を救い出します。
天皇も上皇もこちら側にあるということは、
官軍になります。正義です。
「逆賊信頼を討て!」ということで、清盛は
信頼方に合戦をしかけます。
この時清盛の前にたちふさがったのが源義朝です。
かつて3年前の平治の乱では味方同士として轡をならべた
清盛と義朝が、今回平治の乱では敵同士として戦うのです。
しかも、ここに至って源氏と平家、
源平合戦の形となりました。
源平 それぞれの運命
結果清盛が勝利し、平家はたいへんな手柄を立て、
のちのちの繁栄のいしずえを築きます。
いっぽうの源氏には悲惨な運命が待っていました。
3年前の保元の乱では一族の棟梁為義を斬られ、
さらに今回、平治の乱では義朝が殺されます。
戦にやぶれて逃げていく途中に風呂に入っているところを
味方にグサーと刺殺されたという、悲痛な最期です。
そして義朝の子義平、頼朝、(のちの)義経。
源氏の次世代をになう若い世代にも、
ひどい仕打ちが待っていました。
長男義平は殺され、頼朝は伊豆に島流しになり、
おさない牛若はしばらく平家の監視下に置かれた後、
鞍馬寺に預けられます。
というわけで、1159年平治の乱より以後20年間。
地方で屈辱にあえぐ源氏と、
中央でワッと上がっていく平家。
20年間、こういう図式があった上で、
源平合戦へと至るわけです。
「平家物語」を読むときに、
「繁栄をきわめる平家一門に対して
全国の源氏が立ち上がった」という、
かんたんに言えばそんな話なんですが…
20年です。
平治の乱以来、20年間の屈辱を源は嘗めてきた。
その20年の時の重みを考えるとき、
なぜ源氏が打倒平家に立ち上がったのか?
なぜ死に物狂いで戦ったのか?
そういうことが、身に染みてわかってきます。