坂落し

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2月7日早朝、
東の生田口でも西の塩屋口でも北の夢野口でも激しい合戦が始まりました。
一方、義経率いる70騎は一の谷西口の裏手の断崖の上に出ます。

1184年(寿永3年)2月7日 一の谷への総攻撃はじまる
【1184年(寿永3年)2月7日 一の谷への総攻撃はじまる】

はるか下には一の谷の陣が小さく見えます。あっちでもこっちでも
足軽や馬が忙しく動いているのが、まるで箱庭にように見えます。

「まずは馬を落としてみる」

義経は何頭かの馬を断崖の上から追い落とします。
ドザザザ、ぎゃふうううんと落ちて行って、足を打ち折る馬もあれば、
無事に平地まで降り立つものもありました。

「どうじゃ。このように乗り手が注意して坂を駆け下りれば、
馬がひっくり返ることは無い。さあ落とせ!義経を手本とせよ」

義経みずから先頭に立って、三十騎ばかりを率いて駆け下りると、

「大将軍に続け!!」

次々と駆け下りていきます。

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後陣に落す人々のあぶみの鼻は、先陣の鎧・甲にあたるほどなり
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あぶみは馬に乗るときに足を乗せる部分です。
その先が、前を行く者の鎧甲に当たるようだと。
上手いこと言いますね。

小石が入り混じった砂地をざあーーっと流れ落ちるように
二町…200メートルほど駆け下りて行き、途中で一度平地になっている部分に
降り立ちます。

そこから下を見下ろすと、断崖絶壁がスコーンと
十四五丈…一丈が3メートルほどですから、数十メートルにわたって、
切り立っていました。

「これは…無理だ」

一同途方に暮れます。その中に佐原十郎義連が、

「何をこれくらいのことで。私の故郷の三浦では、
ちょっとした狩りの時でもこれくらいの場所は駆け歩いておる。
馬の調練にはちょうどよい場所じゃ」

真っ先に駆け下りていきます。

「くっ!先駆けを許すな!」

一同、ドザーーと駆け下りていき、
一の谷の西口にたどり着きます。

西の塩屋口でも東の生田口でもすでに合戦がはじまり、
平家軍はそちらに気をとられていました。

すると背後から、

ワーーーッ

鬨の声が上がります。

「何だ!?」

平家軍がふりむくと、源氏の白旗がバタバタとたなびいていました。
しかも自軍の城塞の内部に、いきなり敵が出現しました。

三千余騎が声なれど、山びこにこたへて、十万余騎とぞ聞こえける。

義経軍はそこらの仮屋にひょうひょうと火を放ちます。
折からの強風にあおられ、黑煙がゴーーと平家軍に押し寄せます。

うわあああ!!

たちまち平家軍はあちらでもこちらでもでもわれ先にと逃げ出し、
一の谷の城塞は大混乱に陥りました。

「まさか…あの崖を駆け下りたのか!!」

「舟に逃げろ!!」

1184年(寿永3年)2月7日 一の谷の平家軍、敗走
【1184年(寿永3年)2月7日 一の谷の平家軍、敗走】

混乱した平家軍は水際に停泊していた舟にわれ先にと乗り込みます。
しかしあまりに乗り込みすぎて、舟は少し沖へ出ると、グラリとゆれて、
ざばあっ ひっくり返ります。

「身分のある方だけをお乗せしろ!雑兵はほおっておけ!
えーい来るな!舟が沈むであろう」

「そんなこと言わずに、乗せてってくれーッ!!」

船端につかみかかるその手を太刀や長刀でスパッスパッと
斬ったり払ったり、

陸地からは火が押し寄せ、舟に乗ろうとすると味方に手を斬られ、
雑兵たちには逃げ場がなく、
一の谷の水際はたちまち鮮血に染まりました。

一の谷北方の夢野口を守っていた能登守教経は
愛馬うす黒に鞭をあて、西へ落ち延びます。
明石から舟に乗り平家本陣のある四国の屋島に逃れます。

1184年(寿永3年)2月7日 能登守教経、屋島へ
【1184年(寿永3年)2月7日 能登守教経、屋島へ】

追撃戦

平家軍は義経の奇襲に大混乱に陥り、
総崩れとなります。

逃げる平家方。追う源氏方。

この追撃戦のさ中、平家方の名だたる大将があるいは討たれ、
あるいは生け捕りとなります。

平家物語はその要所要所を点景として描き出していきます。

平通盛

平通盛は弟教経とともに一の谷北の夢の口を守っていましたが、
教経とは離れ離れとなり、敵七騎に囲まれて討ち取られました。
たいへんな愛妻家として知られていました。その妻小宰相もすぐに
通盛の死を知って入水自殺します。

越中前司盛俊

越中前司盛俊は剛力の持ち主として知られる平家の家人ですが、
一の谷の北夢の口を守っていて、
源氏方の猪俣小平六に討ち取られます。

北陸般若野の戦いで、今井四郎兼平と戦って敗れたことがあります。

平重衡

平重衡は一の谷東の生田の森の副将軍をつとめていましたが、
追撃戦のさなか、源氏方の梶原源太景季らに生け捕りにされます。

この重衡は清盛の五男で、南都を焼き討ちにした人物です。
先年の以仁王の乱の際、以仁王に加担した興福寺に怒った清盛は、
重衡を中心とした討伐軍を差し向けます。

その際、故意か過失かわかりませんが重衡軍の放った火が
寺寺に燃え移り、大仏も燃え、以後平家は「仏敵」として憎まれることとなりました。
実行犯であった重衡は特に寺社勢力から憎悪を向けられていました。

平経正

平経正は沖に停泊している舟に逃れようとしていたところ、
源氏方の川越重房の手勢に取り囲まれ、討ち取られます。

琵琶の名手として知られる貴公子で、
およそ戦とは結びつかない人物です。

木曽義仲討伐のために平家軍が北陸へ向かった際、
琵琶湖の竹生島で戦勝祈願の祈りを捧げて琵琶をかなでたところ、
そのあまりの見事な演奏に袖の上に白い龍があらわれたという
逸話がよく知られています。

≫次章「忠度の最期」

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