凡兆・羽紅夫婦泊まる
廿日 北嵯峨の祭見むと羽紅尼(うこうに)来(きた)る。
去来京より来(きた)る。途中の吟とて語る。
つかみあふ子共の長(たけ)や麦畠
落柿舎は昔のあるじの作れるまゝにして、処ゝ頽破す。中ゝに作(つくり)みがゝれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とゞまれ。彫(ほりもの)せし梁(うつばり)、描(えがけ)る壁も風に破れ雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるに、竹縁(たけえん)の前に柚の木一(ひと)もと、花芳しければ、
柚の花や昔しのばん料理の間
ほとゝぎす大竹藪をもる月夜
現代語訳
二十日、北嵯峨の愛宕山の愛宕権現の祭を見ようと、凡兆の妻・羽紅尼が来た。
去来が京から来た。途中の吟だといって語る。
つかみあふ子共の長(たけ)や麦畠
(子供たちが麦畑の中でつかみあって遊んでいる。その背丈と麦のたけが同じくらいだ)
落柿舎は昔の持ち主が作ったままであり、所々大きく破損している。それが、かえって、きれいに磨かれた昔の様子よりも、今のあはれ深いさまの方が心惹かれるのだ。彫刻をした梁、絵を描いた壁も風に破れ雨に濡れて、変わった形の石、見事な松も葎の下に隠れているのだが、竹の縁の前に柚の木が一本あり、花がかぐわしいので、
柚の花や昔しのばん料理の間
(ここ落柿舎では、かつて何人も客を呼んで豪華に料理をふるまったりしたのだろう。今は荒れ果ててその名残とて無いが、わずかに柚の花にその栄えていた昔がしのばれる)
ほとゝぎす大竹藪をもる月夜
(うっそとした竹藪の葉の間から月の光が漏れている。その時ほととぎすが鳴いた)
語句
■北嵯峨の祭 愛宕山の愛宕権現の祭り。 ■羽紅尼 凡兆の妻。出家して羽紅尼と名乗っていた。 ■昔のあるじ 去来の前の持ち主。 ■竹縁 竹で組んだ縁。尼羽紅(あまうこう)
又やこん覆盆子(いちご)あからめさがの山
去来兄(あに)の室(しつ)より菓子・調菜の物など送らる。
今宵は羽紅夫婦をとゞめて、蚊屋一はりに上下五人挙(こぞ)り臥たれば、夜もいねがたうて夜半過よりをのゝ起出(おきいで)て、昼の菓子・盃など取出(とりいで)て暁ちかきまではなし明す。去年(こぞ)の夏凡兆が宅に臥したるに、二畳の蚊屋に、四国の人臥したり。おもふ事よつにして夢もまた四種(よくさ)と書捨たる事共など、伝出(いいいだ)してわらひぬ。明れば羽紅・凡兆京に帰る。去来猶とゞまる。
現代語訳
羽紅尼の句
又やこん覆盆子(いちご)あからめさがの山
(またいつか嵯峨の山に来よう。その時はイチゴが赤く色づいているといいな)
去来の兄の奥さんから菓子や副食物などの差し入れがあった。
今夜は羽紅尼夫婦を泊めて、蚊帳一はりに身分の上下を問わず五人こぞって寝たので、夜も寝づらくて、夜半すぎから各人起き出して、昼の菓子・盃など取り出して暁ちかくまで話し明かした。
去年の夏、凡兆の家で寝た時に、二畳の蚊帳に、四人の人が寝た。思うことは四つにして夢もまた四つと書き捨てた事なんかなど、言い出して笑った。夜が明けると羽紅・凡兆は京に帰った。去来はなお留まる。
語句
■去来兄の室 去来の長兄・向井元端の妻。 ■上下五人 身分の上下を問わず五人。芭蕉・去来・凡兆・羽紅尼・下男。 ■四国の人 伊賀の芭蕉・肥前の去来・尾張の丈草・加賀の凡兆。 ■四種 「夢は四夢とて四品あり」(譬喩尽)「夢に四種あり」(諸経要集)などをふまえる。
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嵯峨日記 現代語訳つき朗読