三井寺

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逃げる以仁王

以仁王は高倉通りを北へ、近衛通りを東へ、
鴨川を超え、夜通し如意ケ岳を歩き続け、
翌朝早くに大津の三井寺に到着します。

ぜひ原文で読んでほしいところです。カッコいいです。
細かい言葉の意味はわからなくても、ワーッと場面が浮かぶ文章です。

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知らぬ山路を夜もすがらわけいらせ給ふに、
いつならはしの御事なれば、
御あしより出づる血は、いさごをそめて紅の如し。
夏草のしげみがなかの露けさも、
さこそはところせうおぼしめされけめ。
かくして暁方に三井寺へいらせおはします。
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三井寺へ
三井寺へ

なぜ三井寺をたよったのか?

三井寺は正式には長等山園城寺といい、
天智、天武、持統、三代の天皇の産湯を汲んだ
井戸が境内にあることから「御井(みい)」が転じて
三井寺とよばれるようになりました

そもそもなぜ、以仁王と頼政は三井寺をたよったのか?

この時代三井寺や延暦寺、興福寺に東大寺…
寺社勢力はこぞって反平家よりでした。

中でも三井寺は後白河法皇がひいきにしていた寺です。
後白河法皇はかつて「伝法灌頂」といって、
頭に水を注いで阿闍梨の位を授ける大切な儀式を、
三井寺で受けようとされたことがありました。

この時は比叡山の横やりで実現されませんでしたが、
とにかく後白河法皇は三井寺をひいきにしていました。

その三井寺びいきの後白河法皇を、
平家はとらえて鳥羽の離宮に幽閉してしまったということは、
平家は三井寺の敵となります。

また、もともと三井寺は源氏にゆかりの深い寺です。
頼政の遠い先祖にあたる源頼義(よりよし、らいぎ)は、
奥州の豪族安倍氏が朝廷に反旗を翻した時、
鎮圧におもむきます。前九年の役とよばれる戦いです。
「平家物語」に描かれたこの時点より130年ほど昔のことです。

この時、源頼義は出発前の戦勝祈願に
三井寺に参詣しています。

また頼義より一世代前の
源頼光…酒呑童子退治で有名な源頼光も、
三井寺で元服式を行っています。

こうしたことから、もともと三井寺は
源氏にゆかりの深い寺、すなわち反平家よりだったわけです。

三井寺、そして「北嶺」とよばれる比叡山延暦寺、
「南都」とよばれる奈良の東大寺・興福寺。
これら寺社勢力は互いにいがみあっていることも多かったですが、
後白河法皇が平家によって鳥羽の離宮に幽閉されてからは
法皇さまを平家の手からお救いしよう、
そのためには寺どうしで争っている場合ではない、
…こういう風潮が高まっていました。

そこへ、以仁王が三井寺へ逃げ込んできます!!

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三井寺の評議

ブオッホー、ブオッホー
カーンカーンカーンカーン

早朝の三井寺にほら貝と鐘の音が鳴り響きます。
講堂にはおおぜいの僧が集まってガヤガヤいっています。

「清盛の悪逆をいましめるは、
今よりほかは無いッ!」

「ここ数年の平家のおごり高ぶり!
朝家を軽んじ、仏法をふみにじり!」
目に余るものがある!」

「そこへ!われらのもとへ法皇さまの王子が助けを求めてこられた!
「これが正八幡大菩薩のお導きでなくて何であろう!」

「しかしッ!強大な平家の軍事力の前で
われらはあまりに無力!」

「そこで!延暦寺、興福寺に協力を求めようと思う」

がやがやがやっ…皆の中に動揺が走ります。

山門寺門の争い

三井寺と比叡山延暦寺との間には、長い争いの歴史がありました。

延暦寺の住職を「座主」といい天台宗の総元締めです。
(現在の御座主さまは256代目の半田座主。
何度もバチカンを訪問しローマ法王と対談されています)

初代伝教大師最澄から数えて五代目の座主、円珍(智証大師)が
長らくすたれていた園城寺を再興します。
そして園城寺を延暦寺の別院として復活させました。
中興の祖というやつです。

しかし円珍が亡くなると、比叡山は二派に分裂します。

第三代座主慈覚大師円仁を信奉する円仁派と
第五代智証大師円珍を信奉する円珍派にわかれて争うようになります。
(本人はどっちもこの時点で亡くなってるんですが)

円仁派と円珍派の争いはとうとう武力衝突にまでおよびます。

円仁派が円珍派の僧坊をたたきこわすに及んで、
壊されたほうの円珍派はこれはやってられん、ということで
山を下り、園城寺に身を寄せます。

以来、「山門」とよばれる比叡山延暦寺と、
「寺門」とよばれる園城寺の間には「山門寺門の争い」といって
長い争いが繰り広げられてきました。

延暦寺は何度も園城寺を焼き討ちにしました。
かの武蔵坊弁慶も、延暦寺から三井寺焼き討ちに派遣された一人だという説があります。

園城寺から延暦寺への書状

…とまあ、くわしく説明すると頭グチャグチャになるんですが、
ようは延暦寺と三井寺の間には
ややこしいいがみ合いの歴史があったわけです。

「しかし!もともと
延暦寺と園城寺は同じ天台宗を学ぶ者。
言わば鳥の左右の翼、車の両輪のようなもの。
このような大事に、仲間同士いがみあっている場合であろうか!」
「いいぞ!」「そうだそうだ!」

というわけで、三井寺から延暦寺へ協力を願う書状を送ります。
しかし、その書き方にマズいところがあったんですね。

「鳥の左右の翼、車の両輪」

この言葉が延暦寺を怒らせてしまいます。

≫続き 「延暦寺・興福寺の動合」



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