更級日記 現代語訳・朗読つき 全篇徹底解読  | 富士川のほとり 不思議な紙の話

富士川のほとり 不思議な紙の話

原文

富士の山はこの国なり。わが生ひ出でし国にては西面に見えし山なり。その山のさま、いと世に見えぬさまなり。

さまことなる山の姿の、紺青(こんじょう)を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる世もなくつもりたれば、色濃き衣(きぬ)に、白き衵(あこめ)着たらむやうに見えて、山のいただきのすこし平らぎたるより、煙は立ち上る。夕暮は火の燃えたつも見ゆ。

清見が関は、かたつ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。けぶり合ふにやあらむ、清見が関の波もたかくなりぬべし。おもしろきことかぎりなし。田子の浦は波たかくて舟にて漕ぎめぐる。

大井川といふ渡りあり。水の世のつねならず、すりこなどを濃くて流したらむやうに、白き水はやく流れたり。

富士川といふは、富士の山より落ちたる水なり。その国の人の出でて語るやう、「一年ごろ、ものにまかりたりしに、いと暑かりしかば、この水のつらに休みつつ見れば、川上の方より黄なる物流れ来て、物につきてとどまりたるを見れば、反故(ほぐ)なり。とり上げて見れば、黄なる紙に、丹(に)して濃くうするはしく書かれたり。

あやしくて見れば、来年なるべき国どもを、除目のごと、みな書きて、この国来年あくべきにも、守(かみ)なして、また添へて二人をなしたり。あやし、あさましと思ひて、とり上げて、ほして、をさめたりしを、かへる年の司召(つかさめし)に、この文に書かれたりし、ひとつ違はず、この国の守とありしままなるを、三月のうちに亡くなりて、またなりかはりたるも、このかたはらに書きつけられたりし人なり。

かかることなむありし。来年の司召などは、今年この山に、そこばくの神々あつまりて、ないたまふなりけりと見たまへし。めづらかなることにさぶらふ」と語る。

語句

■西面 西の方角に。 ■色濃き衣 色が濃いという時は、紫か紅。ここでは紫。 ■衣 きぬ。表着(うわぎ)の下に着るもの。 ■衵 束帯・直衣姿のとき、単衣と下襲の間に着た短い衣服。 ■清見が関 静岡県清水市興津清見寺あたりにあった関所。天武天皇の時設置されたという。『平家物語』『吾妻鏡』に記述がみえる。 ■関屋 関所の番小屋。 ■くぎぬき 杭をうって、それに横木をわたして柵としてある。 ■けぶり合う 潮煙と富士の煙がよびあうことか。潮煙が関屋のかまどの煙とけぶりあう。潮煙と潮煙がけぶりあうなどの説がある。 ■田子の浦 蒲原と由井あたりの駿河湾に面したところと言われる。現在の富士宮市に同じ「田子の浦」という地名があるが、違う場所と考えられる。山辺赤人「田子の浦にこぎ出でて見ればしろたへの富士の高嶺に雪はふりつつ」が百人一首で有名。 ■大井川 駿河と遠江の国境を流れる川。昔は人を板の上にのせてわたった。 ■渡り 渡し場。 ■すりこ 米をすりくだいた粉。

■富士川 八ケ岳に発する釜無川と甲武信岳(こぶしだけ)に発する笛吹川がやがて合流して富士山の西を南下して蒲原西方で駿河湾にそぞく。 ■ものにまかりたりしに 「もの」は漠然とした対象。 ■水のつら 川のほとり。 ■反故 ほぐ。不要な紙。書き損じの紙。 ■丹して 朱筆で。 ■除目 じもく。大臣以外の人事を発表する行事。前任者を除き新任者を任じるので除目という。春の県召(あがためし。地方官の任命)と秋の司召(つかさめし。中央官の任命)がある。この両者を総称して司召という。 ■あさまし あきれる。 ■そこばくの 多くの。 ■ないたまふ 「為したまふ」の音便。 ■見たまへし たまふは自己謙譲。存じ上げる。 

現代語訳

富士の山はこの国にある。私が生まれた上総の国からは西の方角に見える山だ。その山の様子は、たいそう世に見えない並々ならぬ様子だ。世間並でない山の姿の、紺青の色を塗ったようであるところに、雪が消える間もなくつもっているので、色の濃い衣に、白い衵を着ているように見えて、山の頂が少し平になっている所から、煙が立ち上っている。夕暮は火が燃え建つのも見える。

清見が関は、片方は海であるところに、関所の番小屋などが多くあって、海まで杭を打って柵をわたしてある。富士の煙と潮煙が互いによびあっているのであろうか、清見が関の波も高くなるものと思われる。趣深いことこの上無い。

田子の浦は波が高いので舟で漕ぎめぐる。大井川という渡し場がある。水が世間の並の様子とは違い、米を細かく砕いた粉を濃く流したようで、白波立つ水は勢いよく流れていた。

富士川というのは、富士の山から流れている水である。その国の人が出てきて語ることには、「一年ばかり前、よそに出かけたところ、たいへん暑かったので、この川のほとりに休みつつ見ていますと、川上の方から黄色い物が流れてきて、物にひっかかって留まっているのを見れば、書き損じの紙でした。

取り上げて見れば、黄色い紙に、朱筆で濃くはっきりと書かれていました。不思議に思って見れば、来年国司がかわる予定の国々を、除目のようにすべて書いてあり、ここ駿河の国も来年国司が変わるということで、新たしい国司の名が書いてあり、その横に添えてもう一人の名が書いてありました。

私は不思議に思い、意外なことにあきれて、この紙をとり上げて、干して、しまっておきましたところ、次の年の司召に、この紙に書かれたことと一つも違わず、この国の守に紙に書かれていたまさにその人が就任したのですが、三月のうちにその人は亡くなって、またなりかわった新しい国司も、この紙の傍らに書いてあった人だったのです。

このようなことがあったのです。来年の司召などは、今年この富士の山に、たくさんの神々が集まって、決めていらっしゃるのだと存じ上げます。珍しいことでございます」と語った。

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