木曽最期

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続いて畠山重忠が五百騎を率いて宇治川を渡り切ります。
対岸では木曽方の根井行親、楯親忠が必死に矢を放ちますが、
義経軍の勢いに押され、後退。
勢いに乗った義経軍はそのまま京都まで押し寄せます。

義仲軍、宇治川の守りを破られる
【義仲軍、宇治川の守りを破られる】

京都をのがれる義仲

一方、京都に残る義仲の手勢はわずかに100騎。
義仲は京都の守りを諦め、瀬田方面を守護している乳母子の
今井兼平との合流をはかり六条河原から鴨川を北上します。

粟田口から京都を出て、四の宮河原で敵と戦いながら
瀬田方面を目指します。味方はあそこで討たれここで討たれ、
気が付くと義仲、巴をはじめわずか7騎になっていました。

義仲、今井兼平との合流をはかる
【義仲、今井兼平との合流をはかる】

今井四郎兼平と合流

一方、瀬田方面を500騎で守っていた今井兼平も範頼軍に打ち破られ、
わずか50騎ばかりとなり、義仲との合流をはかり京都方面へ向かっていました。

両者は琵琶湖のほとり大津の打出の浜で合流します。

中一町ばかりへだてて、互いに互いを認め、
主従馬を駆けよらせ、

「義仲、六条河原で敵と戦ってどうにでもなれと思ったが、
汝の行方の恋さのあまりに、ここまで逃れて来たのだ」
「もったいないお言葉です。兼平も瀬田で討ち死にの覚悟を決めていましたが、
殿の行方が心配で、ここまで参ったのです」

今井四郎兼平。義仲が「駒王丸」と呼ばれていた2歳の頃から、
ずっと二人は一緒でした。木曽の山中で過ごした子供時代。
兼平は義仲より少し年上で、兄がわりのような存在だったと思われます。

旗揚げ以降、横田河原、倶利伽羅峠、篠原、そして京都に入ってからも、
義仲のそばには常に影武者のように今井四郎兼平の姿がありました。

その兄弟同然の兼平と、大津の打ちでの浜で、合流することができたのです。

「兼平、幼少竹馬の昔より、死なば一所と誓いあったお前との仲。
まだ絶えてはいなかったのだ。さあ、その旗を揚げよ!」

三百騎で敵六千騎にかけ入る

兼平が巻いて持っていた旗を揚げると、
わらわらと木曽方の武者たちが集まってきます。
その数三百。

「これだけの人数がいれば、どうして最後の戦をせずにいられよう。
兼平、ここに密集しているのは誰の手か」
「甲斐の一条次郎殿と聞いています」
「勢はいかほどか」
「六千余騎と思われます」

「うむ。ならばよい敵であるぞ。同じ死ぬならば、
よい敵と戦って、大勢の中で討ち死にすべし」

義仲は自ら先頭に立って、真っ先に駆けていきます。

原文で。

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木曾左馬頭、其日の装束には、赤地の錦の直垂に、
唐綾をどしの鎧着て、鍬形うッたる甲の緒しめ、
いかものづくりのおほ太刀はき、石うちの矢の、
其日のいくさに射て少々残ッたるをかしらだかに負ひなし、
しげどうの弓持ッて、聞ゆる木曾の鬼葦毛といふ馬の、
きはめてふとうたくましいに、黄覆輪の鞍置いてぞ
のッたりける。あぶみふンばりん立ちあがり、
大音声をあげて名のりけるは、「昔は聞きけん物を、
木曾の冠者、今は見るらん、左馬頭兼伊予守朝日の将軍
源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそ聞け。
たがひによいかたきぞ。義仲討って兵衛佐に見せよや」
とて、をめいてかく。
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一条次郎、
「今名乗ったのは大将軍だ。討ち漏らすな!」

ワーーッと敵が襲い掛かります。

義仲率いる三百騎は、一条次郎率いる六千騎の中にかけ入り、
縦に、横に、蜘蛛手に、十文字にかけわって、
後ろにつっと走り出ると、五十騎ばかりになっていました。

そこへ土肥実平率いる二千騎が立ちふさがります。
土肥実平。頼朝の旗揚げ以来したがっている相模の豪族です。

土肥実平2000騎をかけやぶって押しとおると、
わずかに主従5騎になっていました。

巴との別れ

その中に巴の姿もありました。

義仲は巴に言います。
「お前は女であるので、さっさとどこへでも行ってしまえ。
俺は討ち死にしようと思う。もし人手にかからなければ
自害をするつもりだ。天下にきこえた木曽義仲が、
最後の戦に女をつれていた、などと言われては後世の名折れである」

「そんな!私は最後まで殿と…」
「ならぬ!行け!」
「殿!」
「ええい、行けというがわからぬかッ」

「…わかりました。殿がそこまでおっしゃるなら
仕方がありません。されどこの巴、殿に
最後の戦をお見せいたしましょう」

控えているところに、武蔵国にきこえる豪の者、
恩田八郎師重が30騎ばかりで押し寄せてきました。

バカバカバカバカバガーーッ

巴、その中に駆けこんでいき、

恩田八郎に押し並べて、むずと取って引き落とし、
わが乗ったる鞍の前輪に押し付けて、
太刀は抜かず、素手でもって…

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首ねぢきッてすててンげり。
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「首ねぢきッてすててンげり」…( ゜д゜)ポカーン
すごいですね。

巴は鎧を脱ぎ捨て、いずこかへ走り去っていきました。
篠原の合戦で斉藤別当実盛を討った手塚太郎光盛も、
この戦で命を落とします。

義仲と今井 主従二騎

かくして義仲と、今井四郎兼平。
二騎だけとなってしまいました。

義仲、言います。原文です。

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「日来(ひごろ)はなにともおぼえぬ鎧が
けふはおもうなッたるぞや」
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(普段は何とも思わない鎧が、
今日はばかに重く感じられるぞ…)

生々しい言葉じゃないですか。
肩に食い込むような鎧の重さが伝わってくるようです。

今井、言います。

「殿のお体はまだお疲れではありません。
馬もまだ弱ってはいないはずです。どういうわけで
一両の鎧を重いなどとおっしゃるのですか。それは臆病というものです!
兼平一人ではありますが、他の者千騎に値するとお思いください。
あれに見えるは粟津の松原と申します。
兼平がここで敵を食い止めますので、あの林の中で御自害ください」

「義仲は、都でどうにでもなれと思っていたが、
ここまで逃れ来たのは汝と一所で死なんがためぞ。
別々に討たれるよりは、一つ所で討ち死にいたそう」

義仲はそう言って、今井兼平と馬を並べて駈け出そうとします。
今井兼平は馬から飛び降り、義仲の馬の口に取りついて、

「弓矢取りというものは、日頃どんなに功名があろうと
最期の時をあやまれば長き汚名を残すこととなります。
殿のお体はもうお疲れですし、馬も弱り切っています。
とるに足らない雑兵に討ち取られて、「日本国に聞こえた
木曽殿をそれがしの郎党が討ち取ったのだぞ」などと言われることこそ
口惜しい!さあ、あの松原へ」

「わかった…」

今井四郎の名乗り

今井四郎はただ一騎、敵五十騎ばかりの中に駆け入り、
名乗りを上げます!

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「日来(ひごろ)は音にも聞きつらん、今は目にも見たまへ。
木曾殿の御めのと子、今井の四郎兼平、生年卅三にまかりなる。
さるものありとは鎌倉殿までもしろしめされたるらんぞ。
兼平討ッて見参(げんざん)に入れよ」
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射残したる八筋の矢を次々と射て、
たちまちに敵八騎を射落とします。その後太刀を抜き、
あそこにここに、馳せあい斬ってまわるに
正面から立ち向かおうとする者もありません。

「射とれや!!」

バババババッ

雨のふるように矢を射かけますが、今井の鎧は強力なもので、
簡単には矢を通さず、傷を負わせることができないのでした。

義仲の最期

一方、粟津の松原へ向かった義仲は、ただ一騎駆けていきますが、
頃は正月21日夕暮れ時でしたので、薄氷が張っていました。

そこに深田があるとも知らず義仲はざっと踏み入れてしまい、

たちまちに馬はしずんでいきます。

「おおっ、なんということか。これ、
走れ、動け」

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あふれどもあふれども、うてどもうてどもはたらかず。
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義仲は今井はどうしているかと思い、後ろを振り返った、
その眉間に、

ひょう…ふつっ

矢が突き刺さります。

「うぐおっ」ばった
馬の背にうつぶっさまに倒れる義仲。

そこへ矢を放った石田次郎為久の郎党二人が
駆けより、ついに義仲の首を取ります。

太刀の先につらぬき、高く差し上げ

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「此日ごろ日本国に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、
三浦の石田の次郎為久が討ち奉たるぞや」
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今井四郎兼平は遠くにこれを聞き、

(今は誰をかばうために戦をしようというのか…)

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「これを見給へ、東国の殿原、日本一の豪の者の
自害する手本」
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太刀の先を口に含み、馬からさかさまに飛び降り、
ずばあーーと差し貫かれて、今井四郎兼平、
壮絶な最期です。

今井の自害により粟津の戦は終わりました。

≫次章「樋口兼光の最期」

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