以仁王
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不遇の皇子
繁栄をきわめる平家一門。その一方で、
ウックツした思いをためこんでいる人物もありました。
以仁王は、後白河法皇の第三皇子で御年30歳。
三条高倉の御所で夜な夜な笛を吹いては、
つらい胸の内をまぎらわせておられました。
ピローと笛をならして、
「ハア…。30歳すぎて何らなすことも無い…。
月をながめて笛を吹くくらいしか私には能が無いのか…」
そんなことをつぶやいたかどうか、
わかりませんが。
以仁王の御所は三条高倉にあったので
「高倉の宮」「三条の宮」ともいわれます。
以仁王 系図
以仁王 御所
現在、京都文化博物館があるあたりです。京都文化博物館のうらに、
以仁王の御所のあとをしめす石碑がぽつんと残っています。
30歳すぎても正式な親王宣下も受けられず、
毎日を鬱々としておられました。「以仁王」の「王」というのは、
正式な親王宣下がされていない皇族の子弟のよびかたです。
今は皇族にお子さんが生まれますと、生まれた時に親王といわれますが、
だいぶ昔はシステムが違いました。
「親王宣下」というものをされないと、親王になれません。
親王になれないということは皇族でありながら国家から土地の給付が受けられません。
したがって貧乏です。また特定の位につけない等の制約がありました。
決定的なことには、親王でないと春宮(皇太子)に立てず、
したがって天皇になれる可能性がとても低くなります。
以仁王は幼少から秀才のほまれ高く、笛や書をたしなみました。
いつかは天皇の位について、民のための政治をするぞ、
いい世の中を作るぞ、そんなお気持ちもあったことでしょう。
系図で見ればわかりますが、
けして天皇の位に遠い人物ではないです。
しかし父後白河天皇の退位後、兄二条天皇の崩御後と、
その子六条天皇の崩御後と、
何度も即位のチャンスがあったのに平家の横やりで
肩すかしを食らっていました。
さらに治承三年の政変では父後白河法皇が鳥羽離宮に幽閉され、
以仁王自身も所有していた城興寺とその所領地を平家に没収されてしまいます。
きわめつけに、わずか3歳の言仁親王(ときひとしんのう)が
清盛によって安徳天皇として即位しました。
もはや以仁王が天皇になれる可能性は
完全に絶たれたといえます。
後白河→二条→六条→高倉→安徳と、
何度も肩すかしをくらった挙句に…
結局ダメでした天皇になれませんでしたって話です。
ガックリします。
ちなみに百人一首の歌で名高い歌人の式子内親王は、
以仁王の実姉といわれています。
源頼政
『平家物語』では源頼政が以仁王に打倒平家の令旨を出すことを
たきつけた、という話になっています。
しかし以仁王か、頼政か、どっちがどっちを
たきつけたか、諸説あってほんとうのところはわかりません。
源頼政。源三位入道頼政。鵺退治で有名な人物です。
先祖の源頼光は酒呑童子退治で知られますから、
つくづく化け物退治に縁がある家系といえます。
頼政は平治の乱で平家方についたため
中央政界に残されたものの、すっかり出世からは見放されていました。
どんどん年をとってようやく正四位(しょうしい)に上がったときはもう68歳です。
しかし頼政は、なんとかもう一声。強く出世を望みます。
正四位(しょうしい)の上は従三位(じゅさんみ)。
このナントカ位というのは、位階といって、ようは
官僚のエラさのランクづけです。
中でも正四位と従三位の間には待遇に大きな差がありました。
従三位以上は「公卿」とよばれ、上級貴族とされました。
そこで清盛が気をつかって頼政の昇進のために口利きをします。
御心中お察しします。世が世なら、たいへんな位に上がって方ですあなたは
ということで、清盛の口利きで、頼政74歳にして従三位に上ることができました。
平家政権の中にあって、源氏でありながら三位にのぼるというのは
大変な出世です。以後頼政は「源三位入道」とよばれます。
「平家物語」では昇進をのぞむ歌を詠んで
感心されたという話になっています。
のぼるべきたよりなき身は木のもとにしいをひろひて世をわたるかな
しかし、さすがに歌だけで昇進したとは思えず
清盛の口利きが大きかったと考えるべきでしょう。
つまり、頼政にとって清盛は大恩人です。
すごく気をつかってくれて、昇進の口利きをしてくれたんです。
「アア清盛さまはすばらしい、
こんな老いぼれに気をつかってくださって!」
そりゃもう感謝したはずです。
その大恩人の清盛を、頼政はなぜ?裏切ることにしたのか?
わかりません。
おそらく清盛の暴走っぷりを見ていて、だんだん気持ちが
変わってきたんでしょうね。後白河法皇の幽閉、
関白以下39名の罷免、おさない安徳天皇を即位させる…
ああ、ちょっと違うな。この方はたしかに恩人ではあるけれども、
ここ最近のやり方は、あんまりだ。おかしい!こんなのはダメだと。
名馬「木下」
『平家物語』では、頼政がキレたきっかけは、わりと漫画的に解釈されています。
頼政の嫡男伊豆守仲綱が「木下(このした)」という名馬を所有していました。
ある時清盛の三男宗盛が、名馬「木下」のうわさをききつけます。
そんないい馬なら私によこせと。
いやー、あれは、ちょっと、そのー
仲綱はしぶりますが、一日に五度も六度も使いが来ます。
お父さんの頼政も「そんなしつこく言ってくるんだから、
やったらいいじゃないか」というわけで
仲綱はしぶしぶ馬をゆずります。
すると宗盛は、何じゃもったいつけおって。
素直にわたせばよいものを。
馬の尻に「仲綱」という焼き型をジューッと入れます。
お客が来たときに「たいへんな名馬を仕入れたという話ですが」
「ああこれです。これ(パンパン)仲綱を召せ中綱を」
ひっぱって来られた馬には「仲綱」と刻印がある。
仲綱や、ほおれ仲綱やと、宗盛は馬にことよせて仲綱をはずかしめます。
仲綱はこの噂をきいて、
「ぐぬぬぬ…馬をとられたばかりか
このような恥辱!父上、私はもう耐えられません!」
「むむ…平家の連中、何をやってもわしらが逆らえぬとたかをくくっておるな。
ならば目にもの見せてくれようぞ」
とういうわけで、頼政、
打倒平家に乗り出したと語られていますが、
ガキのケンカかっつう話です。
さすがに一族の命運をかけるにはアホらしすぎる話です。
また宗盛の性格づけも変です。『平家物語』のほかの章では
宗盛はおろかな人物ではあってもこんな意地悪には描かれていません。
不自然です。エピソードとしても絵としても、イマイチって気がします。
『平家物語』には「那須与一」のような研ぎ澄まされた名場面がある一方、
こういうどうしようも無い箇所もあるのです。
作者が何人かいたような気がしますね。
以仁王の令旨
とにかく、以仁王と源三位入道頼政。
どちらがどちらをたきつけたかはわからないですが…。
以仁王と源三位入道頼政治!
両者が結びついて、打倒平家に乗り出します。
「平家を倒すといっても、まずは何をすればよいのじゃ?」
「まずは令旨をお書きください。全国には平治の乱以来、
平家によってしいたげられている源氏が多くございます。
必ずや、君のために立ち上がってくれます」
「令旨」とは、天皇以外の皇族が出す公式文書のことです。
ちなみに天皇が出す公式文書を「宣旨」といいます。
現在この以仁王の令旨は、実物は残っていないようですが…
達筆な以仁王ですから、さぞピシーーとした字で
書いたこと思います。
新宮十郎行家という人物が、
山伏姿で全国を歩き回って、
以仁王の令旨を各地の源氏にとどけます。
発覚
しかし、
わずか1か月でこの計画は清盛の知るところとなります。
熊野別当湛増は以仁王の令旨のことを知り、
福原にいた清盛に使者をとばします。
「おのれッ高倉の宮を土佐に流せ!」
清盛は怒り狂って福原から京都へ飛んできます。
六波羅から捕縛の手が、三条高倉の以仁王の御所に向かいます。
(その捕縛の手の中には頼政の次男、源大夫判官兼綱の姿もありました。
この時点では頼政が謀反に関係していることを平家は知らなかったということです)