祇園社闘乱事件
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1147年(久安3年)、30歳の清盛に
ややこしい事件がふりかかります。
前年には正四位下にのぼり、この年は三男の宗盛が生まれます。
また鳥羽上皇の皇后美福門院に気に入られ援助を受けるなど、
前途洋々の中での出来事でした。
御霊会の夜
ところは京都東山の祇園社です。
祇園社。
飛鳥時代創建の神社ででスサノオノミコトと
クシナダヒメをまつります。
現在は八坂神社といい、毎年七月の祇園祭を行うところです。
またスサノオノミコトがクシナダヒメをお嫁に迎えたときに
詠んだ「八雲立つ」という歌が日本最初の和歌とされることから、
芸能に関係しています。それで祇園の舞妓さんがよくおとずれます。
四条通りを東へ進み、鴨川を超えて、
突き当りに朱塗りの楼門があります。
その祇園社で、御霊会という悪霊をしずめる祭をする際、
田楽を奉納しました。
田楽とは田植え歌から発達した、歌って踊る芸能です。
清盛の部下たちが、この祇園社の田楽奉納の警備のために
派遣されていました。
そこへ、
神人…下級の神官たちが、ケチをつけてきます。
「おい何だこれは、こんな弓とか刀とか持って。
神前だぞここは」
「はあ?刀も弓もなくて、どうやって警備するんだ
何いってんだこいつ」
「なんだその口のきき方は」
「てめえこそ何だ。やんのかおー!」
「どうした?」「おうおう、ケンカか」
騒ぎはどんどん大きくなっていきます。
一人が威嚇のつもりだったか何だが、
キリキリと矢をひきしぼり、ひょうと放ちます。
その矢がまずい方向へ飛んでいき、
神社の宝物殿にぶっさと突き刺さりました。
「ななな…何ということを!!」「けしからん!」
口ぐちに怒り狂う神人たち。
しかし、清盛の部下たちも血気さかんな若い連中です。
「じゃかあしい!お前らがグチャグチャ言うからじゃ!!」
暴れに暴れて、多数の負傷者を出してしまいました。
比叡山怒る
祇園社の本社は比叡山延暦寺です。
延暦寺はカンカンになって怒り、鳥羽上皇に直訴します。
知らせを受けた忠盛は、息子清盛の非を認め、
暴れた武士たちを鳥羽上皇にひきわたしますが、
それだけでは延暦寺は納得しません。
「清盛、忠盛親子を島流しにしてもらいたい!
でなければわれわれ延暦寺としても面子をつぶされて、
黙っていられないですよ!!」
神輿をふりかざして都に強訴することを
におわせました。
この時代の延暦寺はとてもやっかいなもので、
何かと無茶な要求をふりかざしては、神輿をかついで
都に押し入ってきました。
相手は神さま仏さまに関係したことですから、
逆らうとたたりが怖いということもあり、
天皇だろうが上皇だろうが、手を出せなかったのです。
やりたい放題でした。
だから延暦寺が都になだれ込んできたらマズイ。
清盛、忠盛父子を島流しにするのか?
藤原頼長の反論
急きょ、めぼしい公卿が集められ、
議論が行われます。
大半の意見は、忠盛清盛父子に非は無い、
下手人だけを引き渡せばじゅうぶんというものでした。
ところが、ややこしいこと言い出すのがいました。
藤原頼長。博学で知られ「日本一の大学生(だいがくしょう)」と呼ばれました。
何でも記録に取る
几帳面さがありました。仕事においては妥協が無く
人の失敗をバッサバッサと切り捨てることから
「悪左府頼長」の異名をとりました。
後に保元の乱でやぶれた崇徳上皇に加担し、流れ矢に
あたって戦死します。
その、藤原頼長が言います。
「みなさまはそうおっしゃるが、春秋左伝の故事(宣公2年)によれば、
本人が関与していなかったからとて、
それを召しつかっていた者には責任がある。
断固、忠盛清盛父子を処罰すべきです」
この頼長の意見により、一時場はざわつきます。
鳥羽上皇の判断
しかし、鳥羽上皇は毅然として、延暦寺の要求をはねのけ、
忠盛清盛父子を支持します。
鳥羽上皇は、比叡山がそういうつもりなら、
とことん戦をするまでだと、源平の武者を
集め、臨戦態勢です。
さすがの比叡山も、鳥羽上皇の本気を見て、
引きさがりました。
清盛は銅三十斤という軽い罰金で許されました。
しかしこの時の経験は、清盛に寺社勢力は怖い、
バカにならんという気持ちを植え付けます。
そのため、清盛は権力を手中にしてからも
特に比叡山とは対立しないように、対立しないようにと
慎重にやっていきました。
まあ最終的には決戦はまぬがれんという判断でしょうか
晩年に息子の重衡に興福寺を焼き討ちさせていますが。