平家物語
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祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ
説明もいらないくらい有名な『平家物語』冒頭、書き出しです。
「無常観」なんていって学校では習いますね。
こちらで『平家物語』を朗読しています。
こちらで平清盛について、より詳しく解説しています。
諸行無常
諸行無常。盛者必衰。すべてのものは一定の状態にとどまらない。
うつりかわっていく。命あるものは死ぬ。形あるものは亡びる…。
繁栄をきわめた平家一門。
しかし信州で旗揚げした木曽義仲によって平家一門は都を追われます。
都落ちした平家にかわって都に入った木曽義仲、しかし
すぐに源平合戦転じて今度は源氏と源氏、源氏どうしの争いとなり
源義経によって木曽義仲はほろぼされます。
壇ノ浦に平家一門をほろぼした義経は、いちやくヒーロー状態でしたが、
やがて兄頼朝と対立。奥州に逃げ延びるも平泉で討たれます。
こういう血で血を洗う争いの歴史。
ああ諸行無常だなあ。盛者必衰だなあ。
しかし、
『平家物語』は諸行無常だ世のなかは虚しい、
ひたすら神仏におすがりしようナムナムナムとか、
そういうイジケた話では無いのです。
逆です。
むしろ、諸行無常ですべてのものは一定の状態にとどまらない、
移り変わっていく、命あるものは死ぬ、形ある者は亡びる。
そういう運命の前にあって、
人々がいかに生き、考え、ときに笑い、涙し、
その喜怒哀楽の、熱い!ドラマです!!
喜怒哀楽が実にゆたかなんです『平家物語』の登場人物は。
泣くときは泣く、怒鳴るときは怒鳴る。
なんか本心を押し殺してですね。切々と私は思っておりますとか、
そういうことじゃないんだ、ワッと表情ゆたかに、
感情表現が派手で、喜怒哀楽をあらわすんです。
平清盛の魅力
特に前半の主人公平清盛の怒りっぷりが素晴らしいです。派手です。
物語中ではいちおう悪役なんですが、ぼくは大好きです。
西光法師という人物が、
反平家クーデター、鹿谷事件(しずがたにじけん)に
連座していました。
それがバレて、事前に引っ立てられてしまいます。
清盛の前で、すわらされて、後ろに手が回って、
西光法師はしかし、この成り上がりものがッと
清盛を罵倒します。
そこでガーーッと怒り狂う清盛。
そのへらず口を、引き裂いてしまえ!!
上下のアゴを器具で押さえて、
ベリベリと引き剥がしてしまいました。
口は災いの元、とはよく言ったもんですね。
そうかと思うと、反平家の黒幕である後白河法皇の
身柄を拘束しようという段になって。
清盛は息子の重盛にさとされます。
父上、何をバカなことをおっしゃるのですか、
臣下が君にそむきたてまつるなどと、
それでは平家は永遠に朝敵の名を歴史にとどめることになりますぞ!
なんて。
ちょっと覚えてないですが、なんとか、
そんなこと言われたわけです。
この息子の重盛って人はクソマジメであまり面白くない人物なので。
すると、
あ、いや、これは、ワシが悪かった。
みたいに清盛はヘナヘナっとなってしまいます。
片や人のアゴを引き裂く鬼か悪魔かという清盛がです!
片や息子のいさめの前にヘナヘナっと折れてしまう、
そのギャップ。人間くさくて、大好きです。
源氏と平家
『平家物語』のあらすじは簡単に言うと
「源氏と平家が戦争して平家が亡びた」ということです。
じゃあそもそも、源氏って何か?平家って何か?
源平仲悪いイメージがありますが、
もとはどちらも天皇家から出たものです。
昔の天皇というのは側室がいっぱいいて、
たくさん子供をいらっしゃたんですね。
跡継ぎを絶やさないようにリスク回避の意味もあったんでしょう。
しかし何十人も皇子がいて、
すべてが跡取りになれるわけではありません。
しかも皇族には律令という法律によって
領土を保障しないといけませんから、
なんぼ皇室といっても財政が苦しくなります。
お前わるいけど、民間に下ってくれということになります。
あるいは自分から下った者もいました。
このようにさまざまな事情で(主に財政上の理由で)
皇族が民間に下ることを「臣籍降下」といいました。
最初の一二代は貴族として身分が
保障されたものの、三代以降は地方に赴任し、
武士になるものも多かったのです。
で、
皇族が民間に下るときに苗字をたまります。
それが「源平藤橘」という四つの姓(カバネ)です。
源氏とは
52第嵯峨天皇が32名の皇子皇女を臣籍降下させます。
大量リストラってかんじですね。
その時に「源」の姓を名乗らせたのが
源氏のはじまりです。
「源」の字は、「天皇家を源とする」という意味だという
説が有力です。
源氏の中にもいろいろあって、嵯峨天皇の皇子たちが
臣籍降下したものを「嵯峨源氏」、
村上天皇の代で臣籍降下したものを「村上源氏」
そして清和天皇から下ったものを「清和源氏」といいました。
ひとことで「源氏」といってもたくさんの系統が
あるわけですね。
その中でもっとも繁栄したのが
清和源氏、56代清和天皇を祖とする清和源氏です。
この清和源氏の血が、源頼朝につながり、さらに
足利尊氏、新田義貞といった人物につながっていきます。
平氏とは
一方の平氏は、50代桓武天皇を祖とします。
ナクヨウグイス平安京をつくった天皇です。
その平安京の桓武天皇のひ孫にあたる高望王を臣籍に降下させ
「平」の姓を下したのが平氏のはじまりです。
もとをたどれば桓武天皇に行きつくことから「桓武平氏」といいます。
また「平」の字は桓武天皇が遷都した都である「平安京」から
取っているという説が有力です。
同じ桓武平氏でも始祖とする皇子によって
いくかの系統にわかれます。
中でも桓武天皇の第五皇子(第三皇子とも)
葛原親王(かずらわらしんのう)を祖とする系統が
いちばんさかえました。
平氏の初代となった平高望(高望王)は、
上総介として関東に定着します。
しかし、平高望からかぞえて4代目の平維衡(たいらのこれひら)の代で、
何を思ったか伊勢へ下ります。理由はわかっていません。
この平維衡が伊勢平氏のはじまりです。
『平家物語』前半の主人公清盛に
つながっていく血筋です。
「平氏」と「平家」のちがい
ところで「平氏」と「平家」は
どう違うのでしょうか?
同じ平氏でも、始祖となる天皇によって、4系統に分かれます。
仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏、そして桓武平氏です。
また桓武平氏はさらにその内部で始祖となる皇子によって いくつかの系統に分かれます。
その中でも、桓武天皇の第五皇子葛原親王を祖とした、
いちばんさかえた血筋、後の清盛につながっていく血筋を、
特にほかと区別して「平家」といいます。
京都の六波羅に館を建てて、たいへんな繁盛をした、
いわゆる「平家一門」です。
「平氏」という大グループの中に
「平家」があるわけですね。
というわけで、
源氏とは?平家とは?
ざっくりと頭に入れておくと、
『平家物語』の理解がいっそう深まるはずです。
祇園精舎
名文として知られる『平家物語』書き出し部分。無常観をうたった有名な部分につづき、長続きしなかった例として中国の、そして日本の、時の権力にそむき一時的な権勢をほこった逆臣の例がひかれます。
そして最近の例でいうと…という形で、自然に清盛の話へと導いていきます。
清盛の系図を語る部分はややこしいですが、
桓武天皇⇒葛原親王1⇒高視王2⇒平高望3⇒国香4⇒貞盛5⇒維衡6⇒正度7 ⇒正衡8⇒正盛9⇒忠盛10⇒清盛11
という流れです。桓武天皇の第五皇子葛原親王から数えて 九代目が正盛。その嫡男(十一代目)が清盛です。
原文
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高・漢の王莽・梁の周伊・唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にも従はず、楽みをきはめ、諌をも思ひいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民間の愁る所を知らざッしかば、久しからずして、亡じにし者ども也。近く本朝をうかがふに、承平の将門・天慶の純友・康和の義親・平治の信頼、此等は奢れる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申し人のありさま、伝えうけ給はるこそ、心も詞も及ばれね。
其先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王、九代の後胤讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり。彼親王の御子高視の王、無官無位にして失せ給ぬ。其御子高望の王の時、始て平の姓を給ッて、上総介になり給しより、忽ちに王氏を出て人臣につらなる。其子鎮守府将軍義茂、後には国香と改む。国香より正盛にいたる迄六代は、諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだゆるされず。
現代語訳
祇園精舎の鐘の響きは、全ての作られたものは一定の状態に留まらず移り変わるという「諸行無常」の精神を語っている。
釈迦がなくなる時に枯れたという沙羅双樹の花の色は、勢い栄えるものも必ず滅びる「盛者必衰」の道理をあらわしている。
おごり昂ぶる者も長く続くためしはない。ただ春の夜の夢のように、はかないものである。勢いの盛んな者も最終的には滅びてしまう。まるで風の前の塵のようなものだ。
遠く異国(中国)の歴史を見ると、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、これらはかつての君主や主人が行っていた政治に背き、好き勝手な楽しみにふけり、周囲が諌めるのにも耳を貸さず、天下が乱れていくのにも気づかず、民衆が嘆き悲しむことも知らなかったために、その権力は長続きせず、ほどなくして衰えていった。
近く本国の歴史を紐解くと、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらは奢ることも昂ぶる心も皆それぞれであったが、最近の例で言えば、六波羅の入道、先の太政大臣、平の清盛公だ。
その様子を伺うにつけても、想像も及ばず、また言葉で表現することもできないほど、すさまじいことであった。
その先祖を訪ねてみれば、第50代桓武天皇の第五皇子、葛原親王から数えて9代目の後胤にあたる讃岐守平正盛の孫であり、刑部卿平忠盛の嫡男である。
葛原親王の御子、高視王は無位無官のままお亡くなりになった。その御子高望王の代で、はじめて「平」の姓をたまわって上総介とおなりになって以来、にわかに皇族を抜け臣籍に降下され臣下の列に加わられた。
その子義茂は蝦夷を討伐するための鎮守府将軍に任じられたが、後に「国香」と名をあらためた。国香から正盛までの六代は諸国の受領に任じられたものの、いまだ宮中での昇殿を許されてはいなかった。