一の谷への道のり
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義経軍が三草山の平家軍を破ると、平家軍総帥平宗盛は、
従弟の教経に使者を立て、一の谷の山の手夢の口方面の守りに向かわせます。
「いつも御辺ばかりを頼りにして悪いが、
山の手の守りに向かってくれまいか」
教経と通盛
対して教経の答えはいかにも武人らしい、気持ちのよいものでした。「戦というものはわが身にとっての大事と思うからこそ勝利できるのです。
狩りや漁のように、楽なほうへ向かおう、きついほうは避けようなどと言っていては
勝利などとうていおぼつきません。何度でも、この教経にお命じください。
全体の勝ち負けはともかく、教経に向かい合う敵だけは、
必ず打ち破ってごらんに入れましょう」
能登守平教経。俗に「能登殿」といわれます。清盛の弟教盛の次男で
宗盛にとってはいとこにあたります。平家物語後半の主要人物の一人で、
武勇にすぐれ、義経のライバル的存在として描かれています。
【能登守教経】
こうして教経は宗盛に命じられて、兄の通盛とともに夢の口方面へ
出発しようとしていました。
その際、兄の通盛は妻小宰相を舟から呼びおろし、
仮屋の中で最後の名残を惜しんでいました。
【能登守教経 通盛 小宰相】
マジメに戦をしようと思っていた教経は兄通盛のこの態度に、
怒り狂います。
「そんなことで戦になりますかッ!」
「わ…わかった。そう怒るな」
弟に怒られた通盛は妻を返し、ようやく鎧兜を着込むというありさまでした。
義経軍、部隊を二手に分かつ
一方、義経軍は。「殿、通盛、教経兄弟が夢の口に進み、守りを固めております」
「うむ…。兄の通盛殿はともかく、弟の教経殿はきこえる豪の者。
正面からまともにぶつかっては、ひとたまりもない。
ここは奇策を用いるほかあるまい」
2月6日、義経軍は一万騎を二手に分かちます。
土肥実平7000騎は大きく西へ迂回して
高砂から明石を経て一の谷の西口塩谷口へ。
【1184年(寿永3年)2月6日 義経軍 二手に分かれる】
一方義経率いる3000騎は一の谷のうしろ、鵯越方面へ。
ここでさらに3000騎を二手に分けます。
【1184年(寿永3年)2月6日 義経軍 さらに二手に分かれる】
多田行綱、安田義定らの主力部隊は夢の口方面へ。
義経率は畠山重忠らわずか70騎で山中の獣道を進み、
平家軍の陣営の裏手をめざします。
鷲尾の三郎義久
「平家物語」によれば、この山道の案内に武蔵坊弁慶が一人の猟師を連れてきます。
義経は猟師に聞きます。
「これより平家の陣営に馬で駆け下りようと思うがどうか」
「とんでもございません。切り立った断崖です。
馬で駆け下りるなど、とうてい不可能です」
「そうか。その道には、鹿は通うのか」
「鹿は通います」
「うむ。鹿の通う道を馬で通えぬわけはあるまい」
こうして義経は猟師に案内を命じますが、
私はもう年ですからと、息子を紹介されます。
義経はこの18歳の猟師の若者をたいそう気に入り、
鷲尾の三郎義久と名乗らせました。