頼朝の旗揚げ

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源頼朝は源義朝の三男として生まれます。
母由良御前は熱田神宮の宮司の娘です。
上に義平、朝長という二人の兄がいます。

源頼朝 系図
【源頼朝 系図】

初陣 三条東殿焼き討ち

1159年12月9日夜。

バカラッ、バカラッ、バカラッ、バカラッ

深夜の京都の町に、何百騎もあろうかと思われる
馬の蹄の音が鳴り響きます。

「火を放てーーッ!!」

ひゅん、ひゅんひゅん…

ボボッ、メラメラメラぁ…

わあああーーー
きゃああーー

この夜、藤原信頼のクーデターに加担した源義朝は、
軍勢五百騎を率いて三条東殿に焼き討ちを仕掛けます。
「平治の乱」のはじまりです。

1159年(平治元年)三条東殿焼打ち
【1159年(平治元年)三条東殿焼打ち】

三条東殿は後白河法皇の院の御所で二条大路の南、
西洞院大路の東にあり、
当時の政治・文化の中心地でした。

現在、烏丸通りと三条通りの交差点のあたりに
三条東殿跡を記す碑があります。

焼き討ちは容赦ないものでした。
逃げていく女房や下級の役人たちも
容赦なく射殺しました。

焼き討ちを仕掛けた義朝の下に13歳の三男
頼朝の姿もありました。

「父上、これはあんまりです!
いくら何でも」

「頼朝、よく見ておけ、これが戦ぞ」

ボストン美術館が所有する、
「平治物語絵巻」三条殿夜討巻(さんじょうどのようちのまき)は
今にその悲惨さを伝えています。

池の禅尼による助命嘆願

平治の乱を起した藤原信頼はやがて
平清盛によって攻め滅ぼされます。

義朝は六条河原の合戦に破れ、東国へ逃げ延びます。
琵琶湖の南を通って尾張国知多半島まで逃れますが、
味方の裏切りにあい、舘で蒸風呂に入っているところを
刺し殺されました。

三男頼朝は逃げていく途中、父とはぐれ、
関が原をさまよっているところを捕まり、
清盛の前に引っ立てられます。

後ろに手がまわって、六波羅の清盛の前に引っ立てられた頼朝。
清盛のまわりには平家のお歴々が顔をつらねていました。

兵衛介ひょうえのすけ殿、助かりたいか。命は惜しいか」

尋ねる清盛に、頼朝はこう言いました。

「保元の乱では多くの親族を失い
こたびの合戦では父と兄弟たちを失いました。
せめて討たれた者たちの
供養をしたいと思います。
なので命は惜しいです」

「うーむ…」

考えこむ清盛。

さらに清盛の義理の母池の禅尼の必死の嘆願がありました。
頼朝は、亡きわが子家盛にそっくりだったそうです。

「この子は家盛の幼いころに生き写しじゃ。
私にはこの子が家盛の生まれ変わりのように思えるのだよ。
この子を殺すなんてそりゃ酷い。この子を殺すなら私はもう
食事はしません。食事はしないで餓死します」

「親を餓死させる…まあ!
なんてひどい!

「清盛!そなたは親を餓死させる
不孝者じゃ」

義理の母とはいえお母さんにこう言われると
男は弱いですね。

普通なら死罪にするところを伊豆の国蛭ケ小島に
島流しで許しました。以後20年間、頼朝は伊豆で流人生活を
送ることとなります。

伊豆蛭ケ小島
伊豆蛭ケ小島

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流人生活

頼朝が伊豆でどんな流人生活を送っていたかは
資料がなく、詳しいことはわかりません。

しかしわりと自由のある、のびのびした暮らしだったようです。
草深い伊豆の内陸部ですね。
湿気が多く夏は虫が多くて大変だったと思いますが…

狩をしたり近所の若いのと
相撲を取って遊んだ話がわずかに残っています。

経済的にも困りませんでした。

乳母の比企の尼が食料を送ってくれ、母由良御前の
実家である熱田神宮から仕送りをもらっていたからです。

なのでヒマです。何をやっていたか?
お経を詠んでいました。亡き父義朝や
平治の乱で討たれた同族たちの菩提をとむらっていました。

だから頼朝は顔が大きく背が低く
スタイルはパッとしなかったそうですが声はよかったそうです。
よく通るいい声だったそうです。

20年間、毎日朝晩法華経。
毎日やるってことは、積み重ねです。

すっと通るいい声に出来上がって、
後々号令かける時なんか役に立ったことでしょう。

八重姫

平家から頼朝の監視を命じられていた土地の豪族
伊東祐親入道の娘八重姫と恋仲になり
千鶴御前という一子をもうけたという話も残っています。

それもお父さんがいない間にばばっと…
そういう関係になっちゃいました。

事が発覚した時、伊東祐親入道は激怒します。

「流人の子を産むなど!とんでもない話だ!」

こんなことが平家に知られてしまうと、
自分の立場が危うくなるかもしれない。
そこで伊東祐親入道は泣き喚く赤子を取り上げ、
川に沈めて殺してしまったとも言われます。

28歳の時にはやはり平家から頼朝の監視を命じられていた
豪族北条時政の娘政子と一緒になり、
大姫という女の子が生まれます。

このように流人生活といってもわりと自由に
動いていたようです。

以仁王の令旨

20年後、転機が訪れます。

叔父の新宮十郎行家が以仁王の令旨を持って
伊豆に頼朝を訪ねます。行家は山伏姿に身をやつし、
平治の乱以降散らばってしまった全国の源氏たちに
以仁王の令旨を届けてまわっていました。

「おお…なんとおそれ多い…」

頼朝は以仁王の令旨を受けるにあたって、
衣装を着替え、石清水八幡宮の方角を伏し拝んでから
うやうやしく令旨を拝読しました。

そこには以仁王の達筆で、平家を倒せと
切々と訴えてありました。

令旨を持ってきた叔父の新宮十郎行家は、
かなり軽薄な人物でした。

「あなたは源氏の棟梁ですぞ!今こそやるべきです!
すぐやるべきです!平家、どれほどのモノですか」

まくし立てる行家に対して、
しかし頼朝は慎重な男でした。

「私は池の禅尼さまのお情けで命を助けられたのです。
このようなこと、考えるも恐ろしい…」

頼朝はいったん以仁王の令旨を退けます。

「まったく慎重すぎるのも程があります。
決断するなら早いほうがいいですよ!」

行家はぶつくさ言いながら伊豆を
立ち去りますが…

頼朝にとって事態はどんどん悪くなっていきました。

以仁王が打倒平家の令旨を発したことは
すぐに平家の知るところとなり、六波羅から
以仁王の御所に検非違使が差し向けられます。

以仁王と源三位入道頼政はいったん大津の三井寺に
身を寄せますが、三井寺だけでは平家の強大な軍事力の前には無力です。

東大寺・興福寺との合流をはかり奈良方面へ逃げようとしますが、
源三位入道頼政は宇治川の合戦で討たれ、
以仁王も木津川沿いで平家軍に討ち取られてしまいました。

頼朝の決意

こうした出来事があったため、
平家による源氏への監視が強くなりました。
その中でも頼朝は筆頭です。

平家方の大庭景親が頼朝を監視するため、
京都から相模の国へ赴任してきます。

頼朝は舅の北条時政らと集まって
対策を話し合います。

「大庭景親は明らかに佐殿を監視するために
さしむけられたのです。このままでは、
こちらに一切落ち度が無くても
難癖をつけられて討たれてしまいますぞ」

「ううむ…そうは言っても」

「佐殿、今こそ旗揚げを!」

「義父上はそうおっしゃるが…」

「あなた、何を迷うことがありますか!
座して討たれるのを待つなど、バカな話です。
やるのですか!やらないのですか!」

「落ち着け政子」

キレる妻政子をなだめると、頼朝は縁側に立ち、
庭をながめます。

「すっかり夏だなあ。今年もたいへんな暑さだ」

頼朝が起居していた北条氏の館は森山という小山のふもとにありました。ここには現在、北条氏の史跡として願成就院があります。

もとは行基上人が建立したものを、1189年奥州藤原氏との戦いに勝った源頼朝が北条時政に命じて再建させたものです。運慶の阿弥陀如来坐像があります。

7月の伊豆蛭ケ小島にはうっそうと夏草が生い茂り、
垣根の向うの田畑からはジィーーと虫の声が
一晩中鳴り響きます。

伊豆に流されてから20年。辛いだけの時間ではなかった。
むしろ楽しいこと、ほのぼのした場面のほうが多かったようだ。

狩りや畑仕事の後の飯のうまさ。
妻との出会い。ざっくばらんな仲間たち。
都では味わえなかった経験ばかりだ。
そして俺は父親になった。

それらすべてを、伊豆の草深い自然が包み込んでくれていた…

さまざまな感慨にふけりながら、
頼朝は庭をながめてたたずんでいましたが、

「そういえば三嶋大社の祭りが近いな。
政子、久しぶりに二人で行ってみるか」

「あなたそんな、呑気なことを…」

「……?」

しかし北条時政は、頼朝の表情に、
声に、ある変化を読み取っていました。

「佐殿…もしや…」

三嶋大社のお祭りは8月17日。
一ヵ月後に迫っていました。

≫次章「山木兼隆舘襲撃」



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