保元の乱

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1156年保元の乱は天皇家の内部抗争に端を発します。
後白河天皇と崇徳上皇、それぞれが、
どちらの皇子を次の天皇にするかという問題で対立します。

それに藤原氏…摂関家の内部抗争がからみ、
話が複雑になります。

藤原氏摂関家の跡取りをねらう長男の藤原忠通(ふじわらのただみち)が、
後白河天皇とむすびつきます。

一方、次男の藤原頼長(ふじわらのよりなが)は
崇徳上皇と結びつきます。

こうして
後白河天皇、崇徳上皇それぞれの陣営が源平の武士を
かき集めて争いました。

保元の乱の痛ましいことには、親と子、兄と弟、
叔父と甥が分かれて
骨肉相食む争いとなったことです。

よく図を見てください。

清盛と忠正。甥と叔父の関係です。
為義と義朝。親子の関係です。
義朝と為朝。兄弟の関係です。

このように肉親どうしが分かれて争ったという、
たいへん痛ましい合戦です。

とはいえ、合戦そのものはわずか数時間で
決着がつきます。後白河天皇方の勝利です。

やぶれた崇徳上皇は四国の讃岐流されます。
崇徳上皇に加担した藤原頼長は流れ矢にあたって戦死します。

保元の乱のほんとうに痛ましかったのは、
合戦そのものよりも戦後の処理のほうでした。

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死刑の復活

この保元の乱では、
平清盛、源義朝、どちらも勝利者側です。
だからこの保元の乱の段階では源平の争いでは無いわけです。

しかし戦後の処罰はたいへんなものがありました。
350年ぶりに死刑が復活します。しかもただの死刑じゃないんです。

清盛は敵対した叔父忠正を斬らされます。
叔父さんの首をはねたさせられたのです。

義朝にいたっては、父為義の首をはねさせられます。
実のお父さんの首をはねさせられたんです。

考えてみてくださいみなさん、自分の父親の首をはねる。
考えられないでしょ。もちろん本人が手を下したんじゃなくて
家人に命じてやらせましたが、うっ、くっ…
言葉も出ない感じだったはずです。

命じたのは、後白河天皇の側近
入道信西という人物でした。能力はあるとても頭が切れるが、
冷酷な人物です。

また一方で、合戦においては義朝ら武士の意見を素直に取り入れて
合戦を勝利にみちびくといった、度量の広いところもありました。

保元の乱のあと、勝利した後白河天皇はすぐに位を
息子の二条天皇にゆずり、みずからは上皇となって
権力をふるいます。

権力をふるったといっても後白河自身はまともな帝王学も
学んでおらず、29歳までぶらぶらして歌ばかり歌っていたというような
人物です。後白河自身に政治的な才覚はありませんでした。

後白河の下で実際に政治を行ったのが
この信西です。

信西は荘園整理令を発して全国の土地を整理するなど、
思い切った改革をすすめました。

大貴族や、寺社などの荘園も容赦なく没収していきます。
既得権をうばわれることは憎しみにつながります。

ちくしょう。信西のやつ…やりたい放題やりやがって。

恨みの声が全国で高まっていきます。

こうして、3年後の「平治の乱」へとつながっていきます。

≫平治の乱


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