おくのほそ道

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『おくのほそ道』は江戸時代初期の俳諧師、松尾芭蕉によって書かれた紀行文です。「月日は百代の過客にして…」冒頭部分は特に有名ですね。

元禄2年(1689年)松尾芭蕉は門人の河合曾良とともに住み慣れた深川の庵を出発し、みちのくへと旅立ちます。歌枕のロマンを求めて、また西行や能因法師といった旅に生きた先人たちの足跡をたどるために。

日光、松島、平泉、最北端の象潟、北陸道をぐーっと南下して金沢敦賀という名所をめぐり、琵琶湖の東岸を南下して岐阜の大垣にいたるまで。150日間、2400キロメートルにわたるたいへんな旅です。

『おくのほそ道』はこの旅のあと、5年の月日をかけて推敲され、元禄7年に完成。この年に芭蕉は没しています。

世間に広く知られるようになったのは、さらにその8年後、京都の井筒屋より出版されてからのことです。

こちらで『おくのほそ道』を朗読しています。

事実の再構成

『おくのほそ道』の特徴として、実際の旅をそのまま書いたものでは無いということがあります。文学的虚構というか、事実の再構成がなされています。

たとえば太平洋側の松島と日本海側の象潟の対照性を強調したり(「松島は笑ふがごとく象潟は恨むがごとし」)、日光への到着をドラマチックに演出するために日付をずらしたり。

石巻では実際には岬に隠れて見えるはずの無い島「金華山」が海の上に見渡せたと書いたり、市振の関で二人組の遊女と泊まり合わせたという完全な作り話を挿入したり…。

これは何もウソを書いたということではなく、事実そのものを淡々とつづるのでなくドラマチックに構成に工夫をこらしたということです。

芭蕉は『おくのほそ道』に先立つ作品『笈の小文』で書いています。紀行文としては古くは『土佐日記』『東関紀行』『十六夜日記』などがある。これらに勝るものは書けない。今紀行文を書くなら、こういう古典には無い「新しさ」が必用だと。

その新しさを、どこで出すのか…芭蕉にとって『おくのほそ道』は紀行文という表現形態における、一つのチャレンジだったのです。

昭和18年に発見された『曾良旅日記』…これは文章というよりメモのようなもので、比較的事実の旅に近く書かれているだうろと考えられています。

この『曾良旅日記』と比較すると、芭蕉がどこで事実を入れ替えたか、何を強調し何を省略したか、それによって何を描こうとしたかが見えてきます。

序章

原文

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
 草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。

現代語訳

月日は百代という長い時間を旅していく旅人のようなものであり、その過ぎ去って行く一年一年もまた旅人なのだ。

船頭のように舟の上に生涯を浮かべ、馬子のように馬の轡(くつわ)を引いて老いていく者は日々旅の中にいるのであり、旅を住まいとするのだ。

西行、能因など、昔も旅の途上で亡くなった人は多い。

私もいくつの頃だったか、吹き流れていくちぎれ雲に誘われ漂泊の旅への思いを止めることができず、海ぎわの地をさすらい、去年の秋は川のほとりのあばら家に戻りその蜘蛛の古巣をはらい一旦落ち着いていたのだが、しだいに年も暮れ春になり、霞のかかった空をながめていると、ふと【白河の関】を越してみたくなり、わけもなく人をそわそわさせるという【そぞろ神】に憑かれたように心がさわぎ、【道祖神】の手招きにあって何も手につかない有様となり、股引の破れを繕い、笠の緒をつけかえ、三里のつぼに灸をすえるそばから、松島の月がまず心にかかり、住み馴れた深川の庵は人に譲り、旅立ちまでは門人【杉風(さんぷう)】の別宅に移り、

草の戸も 住み代わる世ぞ 雛の家
(意味)戸口が草で覆われたこのみすぼらしい深川の宿も、私にかわって新しい住人が住み、綺麗な雛人形が飾られるようなはなやかな家になるのだろう。

こういう発句を詠み、面八句を庵の柱に書き残すのだった。

平泉

そしてクライマックスともいうべき岩手の平泉です。2011年世界遺産に指定されました。『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦氏がイラストを描いたことも記憶に新しいです。

原文

三代の栄耀(えよう)一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡(ひでひら)が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡(やすひら)らが旧跡は、衣が関を隔てて、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐつて此城にこもり、巧妙一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡

卯の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな 曾良

兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉(とぼそ)風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時(しばらく)千歳の記念(かたみ)とはなれり。

五月雨の降のこしてや光堂

現代語訳

藤原清衡・基衡・秀衡と続いた奥州藤原氏三代の栄光も、邯鄲一炊の夢の故事のようにはかなく消え、南大門の跡はここからすぐ一里の距離にある。

秀衡の館の跡は田野となり、その名残すら無い。ただ、秀衡が山頂に金の鶏を埋めて平泉の守りとしたという【金鶏山】だけが、形を残している。

まず義経の館のあった高台、【高舘】に登ると、眼下に北上川が一望される。南部地方から流れる、大河である。

衣川は秀衡の三男和泉三郎の居城跡をめぐって、高舘の下で北上川と合流している。

嫡男泰衡の居城跡は、衣が関を境として平泉と南部地方を分かち、蝦夷の攻撃を防いでいたのだと見える。

それにしてもまあ、義経の忠臣たちがこの高舘にこもった、その巧名も一時のことで今は草むらとなっているのだ。

国は滅びて跡形もなくなり、山河だけが昔のままの姿で流れている、繁栄していた都の名残もなく、春の草が青々と繁っている。杜甫の『春望』を思い出し感慨にふけった。笠を脱ぎ地面に敷いて、時の過ぎるのを忘れて涙を落とした。

夏草や 兵どもが 夢の跡
(意味)奥州藤原氏や義経主従の功名も、今は一炊の夢と消え、夏草が茫々と繁っている。

卯の花に 兼房みゆる 白髪かな 曾良
(意味)白い卯の花を見ていると、勇猛に戦った義経の家臣、兼房の白髪が髣髴される)

かねてその評判をきいていた、中尊寺光堂と経堂の扉を開く。経堂には藤原三代頭首の像、光堂にはその棺と、阿弥陀三尊像が安置してある。

奥州藤原氏の所有していた宝物の数々は散りうせ、玉を散りばめた扉は風に吹きさらされボロボロに破れ、黄金の柱は霜や雪にさらされ朽ち果ててしまった。

今は荒れ果てた草むらとなっていても無理は無いのだが、金色堂の四面に覆いをして、屋根を覆い風雨を防ぎ、永劫の時の中ではわずかな時間だがせめて千年くらいはその姿を保ってくれるだろう。

五月雨の 降りのこしてや 光堂
(意味)全てを洗い流してしまう五月雨も、光堂だけはその気高さに遠慮して濡らさず残しているようだ。

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