生ズキノ沙汰

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女の嫉妬は恐ろしいなんて言いますが、
なかなかどうして、男同士の嫉妬というのも
負けず劣らず、えげつないものがあります。

特に仕事に関して、あいつは俺よりも評価されている。
俺より先に昇進しやがった。能力はぜったい俺のほうが上なのに。
仕事というものが関係する時、男同士の間は実にドロドロしてきます。

今回はその男の嫉妬を、うまーくかわしたというお話です。

京都の木曽義仲を討てとの後白河法皇の院宣を受けて、
鎌倉から蒲冠者範頼、九郎義経を大将とした討伐軍が出発します。

その中に、梶原源太景季、佐々木四郎高綱という二人の武者がありました。
今回のお話の主人公です。

梶原景季と佐々木高綱

梶原源太景季はこの年(1183年)21歳。梶原景時の嫡男です。
梶原景時といえば頼朝の旗揚げの際、
石橋山の合戦でやぶれてほら穴に隠れている頼朝一行を、
それと知りながらわざと見逃したことで知られます。

そのため平家を裏切り頼朝方について以降も御家人として重く用いられたということです。
その梶原景時の嫡男が、梶原景季です。かなりの伊達男だったらしく、
箙(矢を入れる木製の箱)に梅の花を挿して戦場に臨んだ逸話が知られています。

一方の佐々木四郎高綱はこの年23歳。頼朝が伊豆の流人生活をしてた頃から
仕えています。頼朝の旗揚げは伊豆の目代山木兼隆の舘を襲撃することでしたが、
その山木兼隆舘襲撃において佐々木高綱は先陣をつとめました。

梶原源太景季と佐々木高綱。
この二人が今回のお話の主人公です。

梶原、生食を所望する

梶原景季が、頼朝の所有する名馬「生食(いけづき)」を強く所望していました。

「なんて素晴らしい馬だろう。鎌倉殿、どうか生食をこの景季にください」
「ならん。生食はいざという時に頼朝が乗るための馬じゃ。
磨墨も、おとらぬ名馬ぞ」

ということで、梶原景季は頼朝から名馬「磨墨」を下されました。

ところがその後、頼朝は何を思ったか
佐々木高綱にあっさりと生食を下します。

同じ部下といっても佐々木高綱は伊豆で流人生活をしていた頃からの関係。
いわば譜代です。対して梶原親子は旗揚げ以降、頼朝につきました。

そんな所も待遇の違いとなってあらわれていたのかもしれません。

駿河浮島ケ原

さて討伐軍は鎌倉をたって、
足柄山を超えてゆくもあり、
箱根を超えてゆくもあり、
駿河国に入り浮島が原で馬をとめて休んでいました。

駿河浮島が原
【駿河浮島が原】

梶原景季は高い所に上がって
皆の馬を見下ろしています。

「♪世に馬は多しといえども、
梶原が賜った磨墨にまさる馬など、一つもありはせぬなあ」

いい気分でながめていた梶原。
しかし!その梶原の目に、生食の姿がとびこんできます。

「あれは生食…」

ドッドッドッドと駆け下りていって、

「おい!それは誰の馬だ」
「へえ。佐々木殿の馬です」

怒りの梶原

梶原景季、さっきまでの上機嫌は一瞬で吹き飛び、
カーーッと怒りがこみ上げてきます!

「なんたる心外!鎌倉殿はこの梶原よりも
佐々木をご信用なさるのか!
都へのぼって木曽にきこえる四天王と組み合って死のうか、
または西国へ下って平家の名だたる侍どもと戦って死のうかと、
梶原はそれほどの覚悟であったものを!

鎌倉殿がこのようなお気持ちならば忠義をつくしても詮無きこと。
この上は佐々木と刺し違えて、よき侍二人失う損を
鎌倉殿に味あわせるより他あるまい!」

向こうから佐々木高綱がやってきます。

「佐々木殿」

梶原のその声にただならぬものを感じた佐々木。
(やばい)と思い当たります。

佐々木の機転

(そうじゃ梶原殿も生食をご所望という話であった…)

そこで佐々木高綱、脳をフル回転させて、

「梶原殿、敵はさぞかし宇治川、勢田川の橋げたをはずして、
こちらの攻撃にそなえていることでございましょうな。
かといって佐々木には川を渡り切れるほどの名馬は無し…
鎌倉殿にこの生食をいただきたく思っていたのですが、
きけば梶原殿さえ断られたという話。
まして佐々木ごときが願い出たところで相手にされるはずもございません。
そう思ってある夜馬屋に忍び込んで、後日どんなお咎めもあらばあれと、
盗んでまいったのです」

「盗んだ!」

梶原はあきれ、同時に怒りがスーッと消え、
ニヤニヤ笑いがこみ上げてきます。

「なあんじゃ!それなら梶原も、
盗んでおけばよかった」

二人どっと笑って、場がおさまったという、
「生ズキノ沙汰」です。

≫次章「宇治川先陣」

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