忠教都落

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平家一門の都落ちに際し、いくつもの別れの情景がありました。
薩摩守忠教は清盛の末の弟です。武人としてほまれ高い一方、
歌人としても優れていました。

忠度の帰還

忠度は都落ちに際し、五条京極にある歌道の師、藤原俊成の舘を訪ねます。
藤原俊成は当時の歌壇の権威です。かの小倉百人一首を編纂した
藤原定家の実の父です。この平家都落ちの時点で、俊成は69歳、
定家は21歳です。

忠度は五条京極に俊成の舘を訪ね、高らかに名乗ります。

「忠度」

「あっ!落人が戻ってきた!」

舘の女房たちは取り乱してバタバタします。
なにしろ平家一門都落ちです。そこら中に車やお輿がひしめいて、
上を下への大騒ぎです。ドサクサまぎれに物盗りにでも入られたらたまらない、
ピタッと門を閉じたままでいました。

「特別なことではございません。三位殿に申し上げたきことがあって
忠度が帰ってまいりました」

俊成は、

「そういうこともあるだろう。
その人なら心配はいらない。お入れしなさい」

門が開いて、師弟の対面となります。

歌を託す

忠度は、まず師に長年の御無沙汰をわびます。

「あなたに最初に歌のお教えを乞うて以来、
おろそかにしていたわけではござりませぬが
ここ23年は世の中が乱れ、しかも我々平家一門に直接関係することであり、
ひんぱんに顔を出すこともかないませんでした。

すでにわが君(安徳天皇)は都をご出発されました。
一門の運命も、ここに尽きました。

勅撰和歌集が編纂されるというお話をうかがい、生涯の面目に
ただ一首でも採用していただきたいと思っておりましたが、
そうこうしているうちに、この戦乱の世となりました。

和歌集の編纂が棚上げとなり、忠度の身にとっても
大変な嘆きです。

ここにあります巻物の中に評価に値するものが
一首でもございましたら、ぜひご採用ください。
そうすれば、この忠度、死後も草場の陰から
あなたを遠くお守りいたします」

忠度はそう言って、鎧の合間から巻物を取り出し
俊成に手渡します。

日本人にとっての「歌」

歌、というものが当時の人にとってどれだけ大きな意味を
持っていたか。

ちょっと現在の感覚では想像できないくらいでした。

勅撰和歌集とは、天皇が中心となって編纂される和歌集で、
特に八代集なるものが有名です。
(昔学校で習ったんじゃないでしょうか)

古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、
金葉集、詞花集、千載集、新古今和歌集

この時代は後白河法皇のもと、藤原俊成を中心として
七番目の「千載集」の編纂がはじまっていました。

ところが源平合戦のため、この編纂事業は
一時棚上げとなっていました。

勅撰和歌集に自分の歌が採用される。

これがどれだけ大きな意味を持っていたかは、
ちょっと今の感覚からは想像できないものがあります。

『古事記』によれば日本ではじめて詠まれた歌は
スサノオノミコトがクシナダヒメを妻に迎えた時の歌とされています。

八雲立つ出雲八重垣妻籠みに
八重垣作るその八重垣を

八雲…雲が何重にもたちのぼるこの出雲で、
私は妻を迎えた。大切な妻なので、何重にも垣根をはりめぐらせて、
その中で妻を大切にしよう。何重にも垣根をはりめぐらせた、
その垣根で。

妻を迎えた喜びを詠んだスサノオノミコトの歌です。

以来、日本人は思いが高ぶり感極まった時には、
それを五・七・五・七・七の三十一文字に結晶させてきました。

勅撰和歌集に自分の歌が採用されるということは、
単に有名になる、名前が売れるということではなく、
歌の中に自分の生命が生きる、肉体は滅んでも、歌の
中に魂が生き続ける、それくらい重い意味があったようです。

さざなみや

忠度から巻物を受け取った俊成は、
わかった無下には扱うまいと約束します。

忠度は安心して、再び馬に乗り、門出の歌を声高らかに朗詠しながら
去っていきました。

忠度は一の谷の合戦で命を落とします。

その後、世の中が平和になり、長らく中断されていた
「千載集」の編纂が再開されます。

俊成が忠度から預かった巻物の中にはすぐれた歌が多かったのです。
俊成も、弟子が最後にたくしたものの中から、何とか採用してやりたい、
そういう気持ちもあったことでしょう。

しかし、その時はもう平家は壇ノ浦に滅び、
朝廷にたてついた朝敵という扱いになっています。

名前を名乗ることを許されず、ただ「故郷の花」と題した歌一首が
「詠み人知らず」として採りあげられました。

さざなみや志賀の都はあれにしを
むかしながらの山ざくらかな
(さざ浪せまる志賀の都は荒れ果ててしまい、
長等山には山桜だけが昔ながらの姿で咲いている)

「志賀の都」は天智天皇がひらいた大津京のことです。
天智天皇の下、大津京は都としてたいへんに栄えました。

大津京と長等山
【大津京と長等山】

しかし、天智天皇が崩御するとその後継者争いが起こります。
672年壬申の乱です。

天智天皇の弟大海人皇子と天智天皇の息子大友皇子、
両者の間で起った後継者争い672年壬申の乱によって
栄えていた大津の都は見る影も無く荒れ果ててしまいました。

この忠教の歌は、荒れ果てた大津京の景色と
今まさに源平合戦によって荒れ行きつつある京の都の景色を
重ね合わせて詠んでいるわけです。

さざなみや志賀の都はあれにしを
むかしながらの山ざくらかな

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