木曽義仲出自

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さて木曽義仲についてです。
木曽義仲の生まれについてはよくわかっていません。
出身地は武蔵国比企郡大蔵館…現在の東武東上線武蔵嵐山駅のあたりとされていますが、
群馬のほうだという説もあります。

大蔵合戦

義仲が駒王丸とよばれていた2歳の時に事件が起こりました。

1155年(久寿2年)。この年はこの保元の乱の前年です。都では近衛天皇が崩御し
後白河天皇が即位します。都ではいろいろとややこしい情勢な中、
一方、東国でも源氏同士の争いが起こっていました。

相模国鎌倉を中心に勢力をのばす兄源義朝、
武蔵国大蔵館を中心に勢力をのばす弟義賢。

兄弟といっても腹違いですが…

1155年(久寿2年) 武蔵・相模
【1155年(久寿2年) 武蔵・相模】

義朝というと翌年の保元の乱では平清盛と組んで
後白河天皇方を勝利に導く、平治の乱では討たれた、
あの義朝です。この年は鎌倉にいます。

一方の義賢は、帯刀先生義賢を名乗っていました。
帯刀は皇太子の身辺警護にあたる役職です。
先生はその長官ということです。
近衛天皇が皇太子時代に義賢は帯刀先生の役職に任じられました。
しかしすぐに解任されますが、武蔵国に下ったあとも一種の称号のように
「帯刀先生」と名乗り続けていました。

義朝と義賢、義平
【義朝と義賢、義平】

というわけで、

相模国鎌倉を中心に勢力をのばす兄義朝。
武蔵国大蔵館を中心に勢力をのばす弟義賢。

両者の間の対立はとうとう武力衝突に及びます。

義朝は息子の義平に義賢の館を襲撃させます。
いわゆる「大蔵合戦」という事件です。
不意をつかれた義賢は首かっ斬られました。

義平は叔父を殺した、叔父殺しということで、以後
「悪源太」「鎌倉の悪源太」とよばれることとなります。
「悪」は「悪い」ではなく「強烈だ」「強い」「トコトンやるやつ」などの
意味です。

木曽へ

2歳の駒王丸とその母は生き延びます。
しかし義平の追及は容赦ないものでした。

「駒王丸をさがせ!必ず見つけ出して殺せ!!」

とうとう駒王丸とその母は、
義平の部下、畠山重能によって発見されてしまいます。

「私はどうなっても構いません!この子だけは!」

ひしと抱き合う母と子を見て、畠山重能、ふびんになってきました。

(いくら戦といっても、こんな幼子と母を殺すなんてあんまりだ)

考えたすえ、畠山重能は当時義賢につかえていた武士
斉藤実盛に駒王丸とその母を託すことにしました。

斉藤実盛。義侠心に厚い人物だったようです!

幼い駒王丸と母の手を引いて、木曽山中へ逃げます。

「さあ若殿、もうしばらくの辛抱ですぞ。
奥方さま、お気を確かに」

1155年(久寿2年) 駒王丸、木曽へ
【1155年(久寿2年) 駒王丸、木曽へ】

中原兼遠

さて、木曽山中に中原兼遠という豪族がいました。
斉藤実盛は中原兼遠に駒王丸とその母を託します。

どんなツテがあったかわからないですが…
一説によると駒王丸の乳母の夫、乳母夫が中原兼遠だったといいます。
とにかく何らかのツテがあったんでしょう。

中原兼遠もまた、義侠心に厚い人物でした。

2歳の駒王丸を自分の子供たちの前で紹介して、

「さあお前たち、このお方はな、八幡太郎義家さま以来の
源氏のご嫡流じゃ。お前たちが生涯あるじと仰ぐべきお方ぞ。
生きるも一所死ぬも一所、誠心誠意、お仕えしていくのじゃぞ」

なんてことも言ったかもしれません。

中原兼遠の子供たちの中には、後に木曽四天王として恐れられる
四人のうちの二人、次郎兼光と四郎兼平、
そして今日女武者として有名な巴の姿もありました。

義仲の子供時代

同じ年頃の兄弟のような仲間がいるというのは、
子供としてはうれしいことですよね。

中原兼遠のもとで、木曽の山中で、
駒王丸のちの木曽義仲がどんな子供時代を送ったかは
資料がなく、何もわからないんですが…

たとえば四男の兼平、のちに木曽四天王の一人今井兼平として恐れられる人物ですが…
駒王丸より少し年上です。年も近いということで、兄がわりのような、
面倒見のよい、和気あいあいとした関係になったんじゃないでしょうか。

奥深い木曽の山中です。

ピーヒョロヒョロヒョロ
トンビの声を聞いたり、釣りをしたり、竹馬でみんなで遊んだり、
または村の祭りに行ったり…

わりとのびのびした子供時代じゃなかったかと
私は想像します。

一方で中原兼遠は幼少の駒王丸をしばしば都につれていきました。
平家の人々の姿を見せるためです。

「なんという立派な車か。なんときらびやかな衣装か。
あのようなもの、木曽では見たこともないぞ」
「そうです。貧しい者から取り立てたもので、
ああいう贅沢をしているんですよ」
…なんてことも言ったかもしれません。

元服式を迎えた駒王丸は、以後
木曽次郎義仲と名乗ります。

以仁王の令旨

そして1180年治承4年、義仲のもとに新宮十郎行家が
以仁王の令旨を持ってきます。

すでに伊豆では源頼朝が蜂起したと聞いています。
今か今かとワクワクしていたところです。
「見せろ!!」バッと取り上げて、ワクワクして令旨を開きます。

そこには以仁王の達筆で、
「平家を倒せ」ということが書かれていた。

義仲、ワッと感激して、
育て親の中原兼遠に言います。

「すでに伊豆では頼朝が謀反をおこし、東海道を攻め上っています。
義仲も北陸道をうち従えて義仲と頼朝、日本国に二人の将軍といわれようと
思いますが、いかがでしょうか」

中原兼遠バシとひざを打って、

「その言葉をききたいがために今日まであなた様を育て上げてまいったのです」

というわけで、木曽義仲27歳。旗揚げです。

≫次章「横田河原の合戦」

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