富士川の合戦

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1180年(治承4年)10月 富士川の合戦
【1180年(治承4年)10月 富士川の合戦】

≫源頼朝篇の全音声(9回ぶん)はこちらからまとめてダウンロードできます。

斉藤別当実盛

維盛率いる討伐軍の中に
斉藤別当実盛という老武者が軍艦(目付け役)として
したがっていました。

斉藤別当実盛は、越前国の出身で
以前は源義朝に仕えていました。

しかし平治の乱で義朝が殺されると、
主家を失ったため、平家の平重盛に仕えます。

重盛が若くして亡くなってからは
宗盛に仕えます。

昔は源氏、今は平家という経歴の持ち主です。
この富士川の合戦の時点で70歳を越しています。
すっかり白髪頭です。

東国の事情に詳しいということで、
いわば道案内、アドバイザーのような形で
維盛軍につきしたがっていました。

大将軍の繊盛はこの年23歳。
光源氏の再来かといわれるほどの、
目鼻立ちの整った、それは美しい貴公子です。

維盛は実盛に訪ねます。

「お前ほど強い弓を引くものは、東国にはどれほどいるのか」

実盛は大笑いして答えます。

すると実盛は大笑いして、

「実盛の矢などわずか13束です。東国で大矢を引くといえば15束は引きます。
その弓も強力です。屈強な者が45人で弦を張ります。そのような強い者が矢を放てば
鎧の二三両は重ねてたやすく射通してしまいます。
馬に乗ればどんな悪所でも乗りこなします。戦となれば親が討たれようが子が討たれようが、
死骸の上を乗り越え乗り越え戦います。
西国の戦などというものは、親が討たれればその供養をし、子が討たれれば心を痛めて戦をやめてしまいます。夏は暑い冬は寒いといって話になりません。
東国の戦はそんなものではありません。甲斐信濃両国の源氏どもはこのへんの地理にも通じております。きっと後ろから回り込んでくるでしょう。
なにもわが君を脅そうとして申し上げているのではないのです。
戦は人数ではなくはかりごと次第だと申し上げたいのです」」

実盛ごときを大矢引く者とおっしゃいますか。
実盛の矢などわずか12束です。
東国には実盛ほど射るものはいくらもございます。大矢を引くといわれる者は15束は引きます。その弓も強力なもので、屈強な者四五人で弦をはります。そういう強い者が弓を放つと、鎧の二三は重ねて射とおしてしまいます。

大名といわれるほどの者の下に従う人数とては500騎に下ることはございません。
馬に乗ればどんな悪路でも乗りこなします。戦となれば親も討たれよ子も討たれよと、死ねばその死体の上を乗り越え乗り越え戦います。
西国の、平家の戦などそれに比べれば…親が討たれれば供養のために戦をやめ、子が討たれれば心を痛めて戦をやめ、兵糧米が尽きれば春は田植えを秋は刈り入れを待ち、夏は暑い冬は寒いといって話になりません。

東国の戦はそんなものではございません。甲斐・信濃の源氏どもは
このへんの地理にも通じております。きっと背後から回り込んでくるでしょう。
けしてわが君を脅そうとして申し上げているのではないのですよ。
戦は人数ではなくはかりごと次第だと申し上げたいのです。

聞いているうちに維盛はじめ平家一門の人々は、真っ青になってきました。

(大変なことになってしまった…)

維盛は平家の三代目、この年23歳です。平治の乱の数年前に生まれてるんです。
物心ついたときには平家は繁栄してて、何不自由ない暮らしができていました。
清盛がたどってきた戦での働き、貿易での工夫、
朝廷のややこしい人間関係などの苦労はまったくわからないわけです。

ここに至ってとんでも無いことになったと
真っ青になります。

もっとも実盛が富士川の戦いで
平家軍にしたがっていたというのは『平家物語』の創作で
あるという説が有力ですが…

東国武者の何たるかをとうとうと語る実盛、
実盛の話にビビりまくる一同。味のある場面です。

夜の富士川

その夜、平家方から源氏の陣を見渡すと、
一面にかがり火の明りが見えます。

「ああ…野も山も海も川も敵ばかりではないか。
どうすればよいのだ…」

実はその明りは付近の住民たちが戦を避けるために
逃れている火であって、源氏の火ではありませんでした。
恐れる必要は無かったのですが、
斉藤別当から東国武者の恐ろしさを聞いていたところでもあり、
平家方は縮み上がってしまいました。

水鳥

その夜の夜半ばかり、武田信義が背後から
平家軍に奇襲をかけようと軍勢を動かします。

ザッザッザッ…

その軍馬の音におどろいたのか、富士の沼に群生していた
水鳥たちが、バアーーーッ一度に飛び立ちます。

「ん?はっ?あっ…
敵の奇襲だ!おい奇襲だ!斉藤別当が言ったとおりだ。
回り込まれたー!!」

平家方は大混乱となります。

あまりにあわて騒いで弓取る者は矢を知らず
矢取るものは弓を知らず、人の馬には我乗り
我が馬をば人に乗らる。

または杭に馬をつないだまま駈け出してしまい、
バカラッバカラッとかけまわるというマヌケな場面もありました。

近くの宿場町から遊女たちを招いて歌ったり音楽を奏でて
お酒を飲んですっかり寝ていましたが、
この騒ぎの中、ある者は頭をうち割られ、ある者は腰をふみ折られて
さんざんなことになりました。

翌24日早朝、頼朝軍が富士川に押し寄せます

ワーッワーッワーッ

三度時の声をあげますが…

「何だこれは?」
「もぬけのカラです!」

宴会のゴミばかりでなく、鎧甲も
そこらじゅうにひっちゃらかっていました。

(どうやら戦わずに逃げてしまったらしい)

「これは頼朝の手柄ではない。
ひとえに八幡大菩薩のご加護である!」

どっちでも無いと思いますが…

頼朝、手をあわせます。そして!

「戦には勢いが肝心。このまま京都まで攻め上るべし!」

「お待ちください」

千葉常胤、上総広常らがこれを止めます。

「東国にもいまだ殿に従わない源氏は多く、
鎌倉の守りとてじゅうぶんではございません。
ここはいったん引いて、東国の地固めをすべき時かと」

「地固めか…うむ。たしかにそうだな。これは頼朝が勇み足であった。
そなたたちが正しい」

このように頼朝はたとえ臣下の意見でも
それが正しい内容なら実に素直に聞いたといいます。
地味にカッコいいですね。

黄瀬川の兄弟

こうして頼朝軍は鎌倉に引き返すということで、
その夜は黄瀬川の宿に逗留していました。
戦勝記念の宴会なんか開かれてたかもしれませんね。

そこへ、足柄の山をくだって、街道ぞいに
えっちらおっちら駆けてくる一団があります。

「あれが黄瀬川の宿の明りか。
くっ、富士川の戦はもう終ってしまったらしい」

20人ばかりの供回りをつれたその若者は、
頼朝の逗留している宿の前に立って、

「兄上の旗揚げときき、奥州の藤原秀衡殿のもとから
はせ参じました。九郎義経と申します」

「なに?九郎が訪ねてきたと?ふむふむ、うん、
その容貌ならば九郎に相違ない。通せ」

こうして、
駿河黄瀬川の宿で兄弟20年ぶりの再会となります。

「九郎、顔を上げよ」
「はっ、兄上」
「思えば平治の乱で父頭殿(こうのとの)が討たれて以来、
どれだけつらい思いをしてきたことであろうの」
「もったいないお言葉です。されど、こたびの富士川の合戦にお力添えできなかったこと、悔やまれてなりません」
「なに合戦といっても敵は戦わずに逃げていったわ。
今夜はゆるりと休むがよい」

こんなやり取りがあったかもしれないですね。

≫次章「木曽義仲の出自」

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