頼朝の鎌倉入り

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治承4年(1180年)8月17日、以仁王の令旨を受けた
源頼朝は伊豆で挙兵し、平家目代山木兼隆を討ち取りました。

5日後の8月23日、
頼朝は石橋山の合戦で平家方の大庭景親らに惨敗するも
辛くも逃げ延び、真鶴から舟に乗り、房総半島に渡ります。

そして千葉常胤・上総広常ら平家に不満を持つ
房総半島の豪族たちを味方につけながら上総、下総と 北上し、10月6日、
源義家以来源氏にゆかりの深い鎌倉に入ります。

「ここまで守られたのはひとえに八幡大菩薩のご加護。
しかし都に上るのはたやすいことではあるまい。
今こそ大菩薩を勧請(かんじょう)し奉るべし」

鎌倉と源氏

鎌倉と源氏の関係は、頼朝の五代前の先祖、
源頼義の時代にまでさかのぼります。

1063年、源頼義は前九年の役で
陸奥の安倍貞任を討ち勝利できたことに感謝して、
東国進出の拠点であった鎌倉の地に「鶴丘若宮」として
河内の坪井八幡宮を勧進しました。

これが源氏と鎌倉の関わりのはじめです。

その後、頼朝の父義朝は鎌倉の
亀ヶ谷(かめがやつ)に館を構え、
関東の支配を長男の悪源太義平に任せました。

悪源太義が叔父の帯刀先生義賢を討ったのが1155年大蔵合戦です。
大蔵合戦の勝利により義朝・義平父子は関東に勢力をのばしますが、
1159年義朝は平治の乱に敗れて殺され、長男義平も処刑されました。

また三方を山に囲まれ一方を海に面した天然の要害であったことも、
頼朝が鎌倉を拠点に置いた大きな理由の一つでした。

10月16日、平家方が駿河国に入ったと連絡が入り、
頼朝はこれを向かえ討つべく鎌倉を出ます。

甲斐の武田信義

また一方に、甲斐の武田信義の存在がありました。
あの武田信玄の先祖です。

武田信義 甲斐で旗揚げ⇒信濃⇒駿河
【武田信義 甲斐で旗揚げ⇒信濃⇒駿河】

以仁王の令旨を受けた武田信義は甲斐で旗揚げし、
信濃を経て駿河に侵攻します。

駿河目代橘遠茂(たちばなのとおもち)を
討ち、駿河に勢力を張っていました。

これは頼朝とはまったく別の動きです。
以仁王の令旨を受けて立ちあがった全国の源氏たちは
それぞれ独立した勢力であり、
源氏同士連携していたわけではありませんでした。

例えば、伊豆の頼朝と甲斐の武田を
いがみあわせて、内輪もめに持ち込んだら
平家としてはトクですよね。

しかし、平家にとってマズいことに
伊豆の頼朝と甲斐の武田…
両者は黄瀬川の宿で落合い手を組んでしまいました。

「信義殿、平家打倒のために
手を組みあいましょう」

「もとより異存はござりませぬ」

源頼朝、木曽義仲、武田信義
【源頼朝、木曽義仲、武田信義】

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軍使を斬る

10月17日、
維盛率いる討伐軍が安倍川西岸の手越に入ると、
甲斐の武田信義から書状が届きます。

合戦は浮島が原にて行いましょうと。

当時はわりと儀礼にのっとって合戦が行われ、
合戦前に書状を取り交わすのは普通のことでした。

またその書状をわたす際、使いの者に
手出しをしてはいけないことになっていました。

ところが
平家方の侍大将藤原忠清は、
「私の戦いならともかく、われわれは官軍である。
賊徒が官軍に対して、何をえらそうに!!」

ズバァア

「ぎゃあああ」

その場で軍使を切り伏せました。

「なに?武田の軍使が斬られた!?」

報告を受けた頼朝は平家が戦のルールを
公然と破ったことに驚きあきれ、
そしてつぶやきました。

「もう平家も終わりだ…」

10月18日、駿河の黄瀬川で頼朝軍と武田軍は合流します。
24日を合戦の日と取り決めました。

1180年(治承4年)10月 富士川の合戦
【1180年(治承4年)10月 富士川の合戦】

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