衣笠城の合戦

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現在のJR横須賀線を東京方面から乗って、横須賀の次の駅、
衣笠駅で降り、15分ほど歩いたところに衣笠山公園があります。

緑豊かな公園で、春先にはお花見でにぎわいます。

かつてこの衣笠山公園のそばに衣笠城という山城があり、
平家方の畠山重忠らと源氏方の三浦一族との
間で合戦が行われました。

衣笠城
衣笠城

治承4年(1180年)8月26日
衣笠城の合戦です。

合戦に至るまで

「なんと佐殿が!それはまことか」

折からの雨のため、酒匂川のほとりで
足止めを食らっていた三浦一族のもとに、
石橋山の合戦で頼朝が敗れたと報告が届きます。

「いたし方ない…今は退こう」

89歳の三浦義明、その子義澄以下、衝撃を隠しきれませんが、
なんとか逃げ延びてくれるだろうと本拠地の三浦半島に引き返すことにしました。

途中、鎌倉と厨子の境、小坪峠で
平家方の畠山重忠と合戦になりますが、
双方に死傷者を出しながらも、三浦一党は一族450人あまりで
三浦半島に帰り着き、衣笠城にこもって篭城戦を決め込みます。

一方、平家方の畠山重忠は、同族の河越重頼、江戸重長らと手を組み、
小坪峠の合戦から中一日隔てた8月26日早朝、衣笠城に攻め寄せます。

ワアァーーー、ワアァーーー、ワアァーーー

畠山重忠、河越重頼、江戸重長ら三千余騎は三度
鬨の声を上げ、衣笠城に攻め寄せます。

治承4年(1180年)8月26日 衣笠城の合戦
治承4年(1180年)8月26日 衣笠城の合戦

衣笠城

衣笠城は、三浦半島の中央に位置する山城です。城といっても
戦国時代の天守閣のあるような立派な城ではありません。
源平合戦の時代の、しかも山城ですから、ごく素朴な作りで、
城というよりも砦です。山全体が一つの砦になっていると
イメージしてください。

山の嶺の頂上には平らな陣地が作られ、数十人から
数百人が居住できるようになっていました。

この平らな陣地のことを曲輪(くるわ)といい、
曲輪のまわりは柵で囲まれていることもあれば、
戦闘の際に盾をならべて柵とすることもありました。

曲輪の中には居住区や食料を蓄える倉、馬屋などがあり、
長期の篭城戦に備えて畑や貯水池があることもあり、
旗をはためかせていました。

一つの山城は嶺ごとに幾つかの
曲輪に分かれ、曲輪と曲輪の間は谷や空堀で隔てられ、
板やつり橋を渡して、相互に行き来できるようになっていました。

城攻め開始

「かかれーーッ!!」

ドドドドド…

畠山重忠配下の武者たちが、衣笠城に駆け寄せます。

迎え撃つ衣笠城では、曲輪の淵に盾をかき並べ、
その上から体を出して、矢を放ちます。

ヒュン!…ヒュン!!

「ぐはっ!」「ぎゃあ!」

一騎一騎、正確な射撃で射抜いていきます。

勢いに任せて攻め寄せた畠山重忠配下の武者たちは
正面から馬に矢を食らってはね落とされ、
ざばっと深田に叩き落されます。

「う、うひいいいーーーっ」

深田から這い上がろう、這い上がろうとしている所へ、
ささ竹の中から杖やこん棒を持った雑兵たちが飛び出してきて
打ち殺し、刺し殺ししました。

「これはかなわん!撤退!撤退ーーっ!!」

こうして畠山勢は出鼻をくじかれました。

金子十郎家忠の奮戦

「ええい。ふがいない奴らめ。戦いというものは、こう戦うのだ。
我こそは金子十郎家忠!!」

畠山陣営の金子十郎家忠は一族郎党引き連れて三百騎あまり、
入れ替え入れ替え戦います。人は退けども金子は退かず、
敵は替れど金子は替らず、

ドカーーッ

一の木戸口を打ち破り

ドカーーッ

ニの木戸口をも打ち破り、
さんざんに攻め上ります。

「ひるむな。射殺せ!!」

衣笠城の中から金子十郎家忠に向けて、
散々に矢が射かけられます。鎧兜に
矢の立つこと二十一。ハリネズミのようになりながら、
それでも、金子は前進をやめません。

城の内より戦いのゆくえを見守っていた
三浦義明89歳、思わずうなります。

「敵ながらあっぱれの戦いぶり。
おい、あの者に酒を送れ」

衣笠城から使者が降りてきて
金子家忠に盃を差し出します。

盃に添えられた
書状にはこう書かれていました。

「貴殿の戦いぶり、すこぶる見事。
この歳でまことによい見世物を見せていただきました。
さぞやお疲れでありましょう。この酒を召されよ。
そしてもう一働きよい戦して、わが目を楽しませよ」

「ふん!三浦の死にぞこないが、
味なマネを」

金子家忠は兜を振り仰ぎ、弓を杖について、盃を取り、
ぐいっ、ぐいっ、ぐいっと三度飲みます。

「ぷはっ!…酒を飲んで精がついたわ。
今こそ衣笠城を落としてくれよう。
よおく見ておくがよい」

金子家忠はこう言って使者を無傷のまま衣笠城に帰しました。

金子十郎家忠、再突入

酒を飲んで勢いづいた金子は兜の緒をしめ、
上から敵が矢を射掛けてくるのを
防ぐために盾のかわりに兜の上に腹巻鎧をかぶり、
櫓の根元まで攻め寄せます。

衣笠城内からその様子を伺っていた三浦義明が言います。

「あっぱれの剛の者よ。
一人当千の兵とはあれをこそ言うのじゃ。
誰か!あれを射留める者はいないか?
惜しき者なれど敵は敵。射留めよ」

「されば和田小太郎がよろしいでしょう。
弓を取らせて右に出る者はござりませぬ」

「うむ。小太郎を呼べ」

呼び出された小太郎は太い矢を二本持って
櫓にのぼり、下を見ると、金子家忠は太刀をぶんぶんと
振り回しては、次第次第に攻め寄せ、
櫓のうちへ跳ね入らんばかりの勢いでした。

和田小太郎は櫓の上からキリキリキリキリと
強弓を引き絞り、金子家忠めがけて
ほぼ真下にひょうと放ちます。

その矢が、金子が兜の上にかぶっていた腹巻鎧を
貫き、兜を貫き、金子の額を貫き、顔の内部を通って
まっすぐ下あごまで貫通し、鎧の胸板に突き刺さって止まりました。

「ぐっはあああ!!」

これは痛いです。金子はたまらず声を上げ、どうと倒れます。
傷は痛手でしたが、喉笛までは切れていなかったので
一命は取りとめました。

三浦義明 老後の面目

衣笠城では武蔵国の武士たちが入れ替え入れ替え戦う中、
三浦義澄が命令を下します。

「城を離れず、敵を引き付けて射るのだ。
わが身を守り、敵を焦らせろ」

それを聴いて、父三浦義明89歳が怒ります。

「なんという戦のやりようだ!
守りに徹するなど、実につまらん。
坂東武者たるもの、父死すれど子は顧みず、
子が討たるれども親退かず。乗り越え乗り越え
敵に組んで勝負するこそ戦のやりようではないか」

「父上…そうはおっしゃいますが…
ただでさえ味方は少ないのです。
城外に駆け出すのは、危険です」

「ならば、!お前はそうしろ。
この義明、十三の年に弓矢を手にして今年で
七十九年。今この戦に遭うたことこそ老後の面目。
見ておれ義澄、父の最後の戦をッ!!」

そう言って義明は老体を馬にまたがらせ、
召使二人に馬を引かせ、太刀ばかり腰に下げて、
今にも出陣しようとします。

「おやめください父上!そのお歳で戦の陣へ出れば
たちまち射殺されてしまいます!
物狂いでもされましたかッ」

「黙れ義澄。武者の家に生まれて戦するは
当然の理。敵の陣に向かって命を惜しむは人ならず。
戦というは、追っつ返しつ、進みつ退きつ、
組んづ組まれつ、討ちつ、討たれつ、
敵も味方も暇の無いのが面白い。
一つ所からコソコソと的を射ているような
いじけた戦いしていられるか。どけーい」

ビシイィーーー

義明は鞭で息子義澄の頭を打ちましたが、
兜の上から打たれても痛くもなく、義澄は馬の鼻をひっぱって
必死に父を城のうちに引っ張っていきました。

三浦義明 一族に教訓す

しだいに日が暮れてきます。

衣笠城内では、朝から一日中続いた戦に
誰も彼も疲れ切っていました。
その表情もくたびれ果てています。

三浦義明は子息義澄はじめ家の子郎党を呼び集め、
老いた目より涙を流して、言います。

「みなよく戦った。よもや三浦一族が
世間の笑われ者になることは、あるまい。

お前たち、けして自害してはならんぞ。
佐殿は必ず生き延びていらっしゃる。

お前たちは佐殿と合流し、源家累代の
ご恩に応えよ。平家を滅ぼし、佐殿を大将軍に
なし参らせよ。では、行くがよい」

「はい。父上も御輿にお乗りください」

「いや、義明の身は衣笠城に置いていけ」

「父上!何をおっしゃいますか!!」

口々にさわぐ子息義澄以下家の子郎党たちを
制して、義明は話し続けます。

「義明はすでに老いさらばえている。
歩くもかなわず馬にも乗れぬ。そしてお前たちは
落人である。わしを連れていくと足手まといになる。
途中で打ち捨て置くことにでもなれば、世間の笑い草となろう。

義明は命を惜しんだために、衣笠城に死なずに
屍を道にさらすことになったと。
また三浦の者どもは命惜しさに父を道に捨て去り、
人手に懸けた甲斐性無しだと。どちらにしても口惜しいことだ…

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さらばとくとく落ちて行け。我をばここに留め置け。
老は悲しき物なりけり。哀れ、いとほしき子孫と相共に、
佐殿の世に立ち給ひて日本国を知行し給はんを見て
死にたらばいかに嬉しからん。只今死なんずる義明が、
これ程君を思ひ参らするとは知ろし召されずもやあるらん」とて、
直垂の袖をしぼりければ、家の子も郎等も最期の教訓を
憐みて、声をあげてぞ叫びける。

『源平盛衰記』巻第二十二
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義明はどんなに説得しても頑として輿に乗ろうとしませんでした。

義澄以下三浦一党は泣く泣く義明を置き去りに、
衣笠城を後にします。

夜中に久里浜の岬に出て、頼朝との合流をはかって安房へ漕ぎ出しました。

一方、頼朝はわずかな人数で真鶴から舟に乗り、
こちらも安房へ向けて漕ぎ出していました。

翌8月27日、衣笠城は落ちました。

神奈川県横須賀市大矢部にある満昌寺は衣笠城で討死した老将・三浦義明を追善のため、1194年(建久5年)頼朝が建立した寺です。(神奈川県横須賀市大矢部1-5-10。JR衣笠駅からバス10分)

≫つづき 「上総広常遅参」



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