気遣いの人

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『平家物語』では基本的に悪人扱いの清盛ですが、
べつの記録を見ると気遣いのある、やさしい人柄が書かれています。

「十訓抄」は鎌倉時代中期の教訓説話集ですが、
若き日の清盛についての逸話が書かれています。

十訓抄

間が悪いこと言う人、いますよね。
オヤジギャグとか。場が凍りつきます。

そういう時でも清盛さんは、ははっとお愛想で笑ってあげました。
(言ったほうも面目が保たれます)

また乱暴な人、物をぶッ壊したりメチャクチャやる人。
清盛さんはしかし、そんな人に対しても声を荒げたりせずに、
ああ、いいよいいよ若い時はそんなもんだみたいな、
おだやかに対処しました。

冬の寒いときに若い侍が寝ているときは、自分の衣の裾の近くで
寝かせてやり、朝になってその若侍が起きないでいると、
起こさないようにソッと抜け出して、気が済むまで寝かせてあげたといいます。

召し仕うにも値しないような身分の低い者でも、
その者の親類縁者が見ているまえではひとかどの者として
扱ってやりました。

だから、その人は大変面目がたもたれて、はあっ…清盛さますばらしいと、
誰もが心からほれこんだ、ということです。

「十訓抄」は、もともと子供に道徳を教えるために
書かれた書物なので、やや説教くさいですが、
平家物語やいろいろな古典に登場する人物の記事が多く興味深いです。
たとえば小野小町とか紫式部とかの話も出てくるので、
歴史好きにはオオッ思うところが多い作品です。

アナタコナタシケル

清盛の気遣いぶりを語るエビソードは「十訓抄」のほかにも残っています。

1159年の平治の乱で後白河法皇は少納言入道信西、藤原信頼といった
側近をうしない、その政治力を弱めていました。

一方、藤原経宗(ふじわらのつねむね)惟方(これかた)ら
二条天皇の側近が天皇親政をとなえ、結果、
後白河法皇と二条天皇の仲が悪化しました。

後白河法皇と二条天皇は実の父子です。

しかし後白河法皇は若いころはあまり政治に関心が無く、
今様という流行歌を練習しまくって喉を傷めるまで練習したり、
盗賊が見たいと言い出して逮捕された強盗を館に招いたり、
破天荒な人物です。

一方の二条天皇はピシーッとした、何から何まで
折り目正しい方でした。

性格からいっても、対立するのは当然といえます。

特に対立を決定的にした事は、
二条天皇が先々代の近衛天皇の后であった多子(たし)を
后として迎えたことです。

多子は天下第一の美人のほまれ高かったものの、
近衛天皇に死に別れてからは近衛河原の御所にひっそりと
暮らしていました。

「二代にわたって后となるなど、聞いたことも無い。
何を考えておるのじゃ!」

後白河法皇はわが子二条天皇を説得します。
新し物好き、珍し物好きの後白河法皇も、
こと息子の結婚となると、黙っていられなかったわけです。

しかし
二条天皇は「天子に父母無し(天皇に父も母もあるか)」と
父後白河法皇の訴えを退けました。

このように対立を深めていた
後白河法皇と二条天皇父子。

世間の人は
「深淵にのぞみて薄氷を踏むがごとし」…
深い淵の上に張った、薄い氷を踏んでいるようなものだと、
ビクビクしていました。

清盛はこの時期どうしたでしょうか。
後白河法皇、二条天皇、どちらに肩入れするでもなく、
両方の間でバランスを保っていました。

後白河法皇には蓮華王院…今日「三十三間堂」として知られる
御堂をつくって寄進し、
二条天皇にも日々熱心に仕えていました。

後白河法皇・二条天皇の間での清盛の気遣いっぷりを、
同時代の慈円は著作「愚管抄」の中でこう語っています。

「清盛ハ、ヨクヨクツツシミテ、イミジクハカラヒテ、
アナタコナタシケル」

しかし、清盛のアナタコナタシケルも、
1165年(永万元年)二条天皇が若くして崩御して終わりを告げました。

ちなみに清盛が後白河法皇に寄進した蓮華王院(三十三間堂)は、
吉川英治氏の小説「宮本武蔵」の中で武蔵と吉岡伝七郎の決闘の場面に
選ばれていて印象深いです。

頼政をとりたてる

また清盛の気遣いっぷりを語るエピソードです。

源頼政という人物がいました。後に以仁王と組んで打倒平家に乗り出す人物です。
この頼政の昇進のために清盛は口利きをしてやります。

どこへ行っても平家ばかりが優遇される世の中にあって、
頼政はただ一人、源氏としてがんばっていました。
しかしどんどん年をとって、ようやく正四位にのぼった時は
68歳…。

なんとかもう一声。従三位までのぼれれば悔いは無い。

頼政はもう一歩の昇進を強く、望みます。
正四位(しょうしい)の上は従三位(じゅさんみ)です。
このナントカ位というのは、位階といって、ようは
官僚のエラさのランクづけです。

従三位以上は「公卿」とよばれ、上級貴族とされ、
正四位以下とは待遇に大きなへだたりがありました。

なんとかもう一声、従三位になりたい!
見かねた清盛が、口利きをしてやります。

「頼政殿は源氏で唯一朝廷に忠誠をつくし、武勇にもすぐれておいでです。
しかもあの御老体。そう長くもありますまい。
最後の花を持たせてさしあげたいのです」

平家は貴族めいた存在になっているとはいえ元は武士です。
武士の立場で、宮中ではいあがっていくことがどんなに大変か、
清盛はよく知っていました。

『平家物語』の頼政は鵺という妖怪を退治したり
昇進をのぞむ歌を詠んだりして、それが評価されて昇進したとなってますが、
まさか完全に事実とも思えません。

やはり清盛の口利きがあってのことと思われます。

「ああ清盛さま!この御恩は生涯忘れませぬぞ」

昇進が決まった時、頼政は感激の涙にくれたはずです。
大恩人の清盛を、なぜ頼政は裏切ることにしたのか…

おそらく治承三年の政変をはじめ、暴挙が目立ち始めた清盛に、
清盛さまは恩人だけども、どうも最近のなさりようはおかしい。
これはやりすぎだ。誰かが止めないといけない。
そんな気持ちがあったんじゃないでしょうか。

≫続き 「厳島神社(一)」

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