西光法師への処罰

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平家一門への不満 鹿谷事件

繁栄をきわめる平家一門。

全国に多数の荘園を持ち、
日本の知行国は17か国(治承三年の政変後30国)、
重要な官職を平家の一門が独占していました。

また清盛は娘の徳子を時の高倉天皇に
嫁がせ、天皇家の外戚として絶大な権力をふるいました。

そんな中、平家のために面白くない思いをする者
も出てきます。

大納言藤原成親は、左大将への就任を望んでいたものの
平家一門の平重盛にやぶれ、望んでいた就任ができませんでした。

こんちくしょう、おもろくねえ、
平家ばっかりいい思いしやがって…。
恨みの声が全国で高まっていきます。

時に1177年(治承元年)、京都東山の山奥にある俊寛僧都の山荘に
不満分子があつまり、夜な夜な平家を倒す協議をかさねていました。

「治天の君」 後白河法皇

これら不満分子の中心となったのが、
治天の君たる後白河法皇です。

(天皇が引退すると上皇といい、上皇が仏門に入ると
「法皇」と称しました)

後白河法皇は清盛の妻の妹、
建春門院滋子(けんしゅんもんいんしげこ)を妃とし、
平家とは深いつながりありました。

しかし建春門院滋子が亡くなった後は
平家とのつながりが切れ、
後白河法皇は年々平家一門への敵意をロコツにあらわして
いきました。

そこで不満分子を集めて、夜な夜な共謀を開いた、
これが鹿谷事件です。
もっともこの鹿谷でのクーデター計画には
具体性は無く、ちんたら不満を言い合っている類のものだったようです。

酒をつぐトックリのことを「へいじ」といいますが、
そのへいじに狩衣の裾をひっかけて、「あいや、平氏が倒れた」
「うまいことを言う」ワハハなんていう、たわいもないものでした。

発覚

ところがこのクーデター計画、鹿谷事件は、
内部告発によって発覚してしまいます。

首謀者の一人、多田行綱(ただのゆきつな)が
恐れをなして清盛に密告しました。

ガーッと真っ赤になって怒り狂う清盛。
おのれ平家にたてつくなどと!

清盛は首謀者を次々と逮捕していきます。

首謀者の一人に、西光法師というお坊さんがいました。
後白河法皇の側近中の側近です。とてもキモがすわった、
しかし口が悪い人物です。

逮捕された時もあわてふためくでもなく
「ふん、今行くので待っておれぃ」と、
偉そうでした。

対決 清盛と西光

西八条の清盛の館にひったてられた西光法師。
後ろに手がまわり、警護の武士に取り押さえられています。

そこへ清盛があらわれ、
グリグリと、西光法師の頭をふんづけます。

「お前は、
たまたま法皇さまに取り立てられて今の地位につけたものを
成り上がり者の分際で平家を倒そうなど、
思い上がりおって!」

ふんづけられている西光法師も負けていません。
口が悪い人物です。

「ふん。思い上がりというなら清盛、お前のほうであろう。
お前は14,5歳までは出仕もせず、みすぼらしいナリで
高下駄をはき、高平太などといわれておった。

人は忘れてもこの西光は忘れぬぞ。なーにが太政大臣さまじゃ。
お前など高平太でじゅうぶん。成り上がり者、思い上がりとは
清盛、お前のことよ」

だいぶムカつく感じで言ったんでしょうね。
ぐぬぬぬぬ…清盛は怒り狂います。
「そのへらず口を引き裂いてしまえッ!!」

西光法師の顎を上下にガッと、なんか器具かなんかで押さえて、
メリメリメリ…バッキーーッ、
(どんな音するのか想像もつかないですが)引き裂いてしまいます。

下あごがはずれて、ぶらんぶらんと胸にあたりまで垂れてる。
アガアガと言ってる西光法師を、
五条大路と朱雀大路の交差する京都のど真ん中まで引っ立てて、
ズバー、首を切り落しました。

口はわざわいのもとって言葉はここから来てるんですね。

処罰を行ったあとの、はあはあと清盛の両肩が怒りに
上下してるとこまで伝わってきそうな
「西光被斬(さいこうがきられ)」。印象深いエピソードです。

≫続き 「重盛のいさめ」

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