宗盛父子の処刑

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頼朝、宗盛と対面

さて、頼朝は捕えられた宗盛と対面します。

間に庭を隔てて向いの部屋に宗盛を上げて、
頼朝は簾の中から宗盛の方を見て、
比企藤四郎能員(ひきのとうしろうよしかず)を
使者として言葉を伝えます。

「平家の人びとに特別の恨みがあるわけではありません。
そもそも池の禅尼さまがどれほど取り成してくださったかたらといって、
亡き入道相国殿の御ゆるしがなければ頼朝が助けられることは
ございませんでした。

平家が朝敵となったため、勅命に背くことはできず
平家をうち滅ぼしましたが、これは仕方の無かったことです。

今こうしてお会いできますのは、嬉しいことです」

比企藤四郎能員がこの言葉を伝えようと
宗盛の前まで行くと、宗盛は居ずまいをただし
畏まった態度をしたのは、まことに情けないことでした。

まわりで見ていた人々は口ぐちに言いました。

「卑屈な。あんなことしたって
助けてもらえるわけは無いのに」

ふたたび京都へ

一方義経は、鎌倉郊外で待たされていましたが、
いくら申し開きを訴えても、頼朝は聞き入れる様子も無く、
結局鎌倉には入れずじまいでした。

「急ぎ京へ登れ」

六月九日、頼朝から義経に命令が下されたので
義経は再び宗盛父子をつれて鎌倉から京都へ上るのでした。

宗盛は少しでも処刑が先延ばしになったのを嬉しく思いましたが、

「ここで斬られるのか」
「ここでか」

と、道すがら気が気でありません。

しかし、なかなか斬られずに国々宿々を通り過ぎ、
尾張国内海(知多半島の先端)まで来ました。

ここはかつて平治の乱で敗れた源義朝が家人
長田忠到の裏切りにあって殺された場所です。

「おお…きっとここで斬られるのだな」

宗盛は真っ青になりますが、そこをも通り過ぎます。

「ひょっとしたら助かるのだろうか。
命までは取られないのかもしれぬ」

宗盛は少し希望を取り戻した顔になりますが、
子息右衛門守清宗は、

「どうして助けられましょう。このように暑い時期なので、
頸が腐らないように京の近くで斬られるのです」

と、父に直接言うことはできず
ぐっと飲み込みました。

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宗盛の受戒

こうして日数も経ち、
近江国篠原というところに着きます。

義経はさすがにこのまま殺すのは哀れだと思い、
京都まで三日の距離の所から先に京都に人を遣わして、
宗盛父子のために本性坊湛豪(ほんじょうぼうたんごう)
という僧を招きます。

宗盛は、昨日までは父子一緒に置かれたのに
今日は別々に引き離されたので、いよいよ斬られるのかと
心細くなります。

そして本性坊湛豪に言います。

「わが子右衛門守はどこにいるのでしょう。

互いに手を取り組んでも最期を遂げ、
たとえ首は落ちても骸は一つ蓆の上に
並べようと思っていましたのに。

生き別れとは、あんまりです。

この十七年の間、片時も離れたことはありません。
水底に沈まずに生きて恥をさらしておりますのも、
あの子可愛さのゆえです」

宗盛の言葉を聞いて本性坊湛豪も哀れになりますが、

「今は御子息のことよりも、
ひたすら念仏往生のことをお考えなさい」

そして、宗盛が帝の外戚となり大臣の位にのぼったことが
どれほど恵まれていたか。

今捕えられているのが前世の悪業の報いであること、

どんな人にも死は訪れることなどを諭し、
宗盛に仏教の戒律を授けます。

宗盛は、

「ああ…確かに。御坊のおっしゃる通りだ。
今更じたばたするものではない」

たちまちに妄念が消え、西に向かい手を合わせ、
声高らかに念仏している所へ、

後ろから橘公長という者が刀を構えて近づくと、
宗盛は念仏をやめ、

「右衛門守は、もう斬られたのか」

と訊ねたのは哀れなことでした。

「でやっ!!」

公長が後ろから斬りつけると、
頸は前に落ちました。

本性坊も涙にむせびました。

この公長は平家代々の家人で
平知盛に召しつかわれていました。

「それが、世が変わったからとて源氏に鞍替えし、
あまつさえもとの主君を斬るなど!」

「こびへつらいにも程がある…」

世間の人は恥ずかしく思いました。

右衛門の最期

その後、子息右衛門守清宗に対しても
本性坊は戒を授け、念仏を勧めました。

右衛門守は、

「父の最期はどうであったのか」

「ご立派なご最期でした。ご安心ください」

「今は思い残すことは無い。はやく斬れ」

堀弥太郎が首をはねます。

生きての恥、死んでの恥

頸は義経が持たせて都に入り、
胴体は公長の指示で、父子同じ穴に埋められました。

5月23日、宗盛父子の首が都につき
検非違使どもが三条河原で受け取り、
三条大路を引き回されます。

そして獄門の左の樗(おうち。センダン)の木に
かけられました。

三位以上の人の首が獄門にかけられることは
先例の無いことでした。

平治の乱で藤原信頼はあれほど悪事をはたらいたのに、
首をはねられたまでで獄門にはかけられなかったのです。

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西国よりのぼッては、いきて六条を東(ひんがし)へわたされ、
東国よりかへつては、死んで三条を西へわたされ給ふ。
いきての恥、死んでの恥、いづれもおとらざりけり。
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≫次章「重衡の処刑」



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