逆櫓

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義経、西国へ

元暦2年(1185年)正月8日、源義経は院の御所に
平家追討を奏上します。

「今や平家は神にも君にも見捨てられ
浪の上に漂う落人となりました。
しかしそれを三年もの間放置し、
国々の交通をふさがせているのは、口惜しいことです。
この義経、朝鮮、中国、インドまでも
平家一門を攻め落とさぬ限りは都に帰らぬ覚悟です」

「うむ。夜を昼についで、勝負を決すべし」

後白河法皇は義経に平家追討の院宣を下します。

こうして、

元暦2年(1185年)正月8日
義経は平家追討のため、京都を発って西国へ向かいます。

1185年(元暦二年)義経、西国へ出発
【1185年(元暦二年)義経、西国へ出発】

平家方の状況

寿永2年(1183年)7月に木曽義仲によって平家一門が都落ちさせられてから
もうかれこれ三年の月日が流れていました。

四国讃岐の屋島平家の本陣では、
都から新手の軍勢が四国へ攻め下ってくるとの噂があり、
九州からは臼杵党、戸次(へつぎ)党、松浦党など反平家方の
者たちが攻め渡ってくるとも人々は話し合っています。

あれを聞きこれを聞くにつけても
二位殿も建礼門院以下、生きた心地もせず、
嘆き悲しみ合っておられました。

新中納言知盛は言います。

「東国・北国の者どもも、あれほど平家の恩を受けていたのに
平家を裏切り、頼朝・義仲らに随った。
まして西国の者どもはいっせいに裏切るだろうから、
知盛一人のことであれば都に残り討死するところであったが…
一門をたばねる立場でもあり都を出てきてしまった。
そのために今、このような憂き目を見ている。口惜しいことだ」

知盛は先年の一の谷の合戦では東の生田口を守る大将軍を務めていました。
しかし、一の谷が源氏に破られ、敗走していく中、
知盛は息子の知章を目の前に討たれます。

しかも、その時に助けるでもなく、恐怖からか混乱からか
一目散に逃げ出してきました。

わが子知章を助けずに見殺しにした。

その想いが知盛の心に深く突き刺さっていました。

船団集結

同年2月3日、義経は都を下り
摂津渡辺に到着します。

1185年(元暦二年)2月3日 義経軍、摂津渡辺に到着
【1185年(元暦二年)2月3日 義経軍、摂津渡辺に到着】

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同年13日には伊勢大神宮や石清水八幡宮に
勅使を遣わし
「先帝ならびに三種の神器がつつがなく
都に戻りますように」と祈らせます。

同年16日、渡辺・神崎二か所で
いよいよ屋島に漕ぎ出そうとしていた所に
突如嵐が押し寄せ、大波のために船がさんざんに破損します。

仕方なく出発を見合わせることにしました。

逆櫓論争

配下の武将たちは心配します。

「我々には船戦の経験は無い。
いったいどうしたものか…」

梶原景時が言います。

「船に逆櫓を立てるべきです」

義経は、

「ん?梶原、逆櫓とは何だ?」

「逆櫓とは、前だけでなく後ろにも自由に進めるように
船の前方にも櫓をとりつけるのです」

逆櫓
【逆櫓】

「話にならんな」

「何ですと?」

「戦というものは、一退きも退くまいと思うときさえ、
つい退いてしまうものだ。それを最初から退く用意をしていて
どうする。戦いの門出に縁起の悪い話よ。

梶原殿はいくらでも逆櫓をお立てなさればよい。
義経はもとの櫓で行く」

「お言葉ですが殿、
よき大将軍というものは、進むべき時は進み、
退くべき時は退く。その見極めができてこそ
よき大将軍と言うのです。

進むしか知らぬものを、猪武者と言います」

「猪上等。戦はひたすら攻めに攻めて勝つのが
心地良いのだ」

まわりの武将たちは目配せをしあって、

(おい、どうなっちゃうんだ大将と
梶原殿と。まさか同士討ちなんてことには…)

ひそひそ言い合います。

嵐の中を進む

夜に入ると義経は船に武具を積み込み、
兵糧舞を積み込み、馬を立てて、
船頭や水夫に

「船を出せ」

船頭・水夫たちは、

「追い風ではありますが、普通以上の風です。
今船を出すなど、とても無理です」

義経は怒ります。

「野山でのたれ死ぬも、
海の底でおぼれ死ぬも、
すべて前世の行いの報いだ。

なにも向かい風に出航せよと言っているのでは無い。
多少風が強くても、追い風で船を出せぬことがあるか。
ごちゃごちゃ言うなら、射殺すぞ」

奥州の佐藤三郎兵衛継信、伊勢三郎義盛が
一本ずつ矢を構えて、

「船を出せ!出さぬと、射殺すぞ」

と、すごみます。

船頭・水夫たちは、

「どうせ射殺されるなら…
俺たち漁師は海の上で死ぬことのほうを選びます!」

二百艘のうち五艘だけが進み出ます。
その他は風を怖がるか梶原に遠慮して、
残りとどまりました。

「このような暴風雨の中、船で攻めてくるなど、
だれも考えまい。そこが、攻めどころである」

1185年(元暦2年)2月 摂津渡辺~阿波
【1185年(元暦2年)2月 摂津渡辺~阿波】

義経率いる五艘の船は夜通し暴風雨の中を進み、
普通なら3日かかるところを6時間ほどで渡り、
2月16日深夜の2時ころ出発し翌朝7時ころ四国の阿波に着きました。

≫次章「勝浦」



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