捕らわれた重衡

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生け捕りとなった清盛の五男重衡は車に乗せられ、
六条通りを東へ引き回されます。

車の前後のすだれを上げ、左右の戸を上げて、
外から丸見えの形でさらしものにされます。

「亡き入道相国さまにも、二位殿にも重衡さまは
あれほど可愛がられていらっしゃったのに…。
これも南都を焼き討ちにした仏罰であろうか…」

都の人たちは老いも若きも尊きも卑しきも、
重衡がさらしものになっているのを見て
涙を禁じえませんでした。

六条大路を引き回される重衡
【六条大路を引き回される重衡】

六条大路を東に引き回され鴨川至ると、今度は同じ道を引き返します。
そして八条堀川にある、かつて鳥羽上皇第一の側近であった
藤原家成の舘の御堂に閉じ込められ、
土肥実平が警備にあたります。

屋島への書状

そこへ、院の御所六条西洞院より
藤原定長という者が使者として遣わされてきます。

(ちなみに院の御所は法住寺殿にありましたが
先年11月の木曽義仲のクーデターで焼打ちされたため、
六条西洞院に遷っています)

御使いの藤原定長は赤衣(あかぎぬ)という
五位の役人が着る赤い上着をまとっていたため、
まるで閻魔大王の地獄の使いのように見えたと
「平家物語」にはあります。

「屋島にいる一門のもとに帰りたくば、三種の神器を都へ返還するよう
一門のもとに文を書き送れと、法皇さまの御言葉です」

「どうして重衡一人ごときの命を
三種の神器と引き換えにするなど…一門の中の誰が
そんなことを許すでしょうか。
しかし院宣を無視するのも畏れ多いことですから、
文は書きましょう」

二位殿の嘆き

こうして後白河法皇の院宣と重衡の文を持った使いの者が
京都を発ち四国讃岐の屋島の平家の陣へ向かいます。

院の使い、屋島へ
【院の使い、屋島へ】

「先帝が内裏を離れ三種の神器が都から失われてすでに半年を超える。
こうしたことは、つくづく国家の衰えのもとである。
そもそもわれらのもとに生け捕りとなっている重衡卿は南都を焼打ちにした
逆臣。すぐにも死刑に処するべきところであるが、
一人親族と離れ、屋島に残してきた一門のことを
想う心の内、想像するに余りある。
三種の神器を都に返還するならば重衡卿の罪をゆるし
寛大な処置を約束すると、法皇さまの御言葉である」

重衡からは宗盛と時忠と
母・二位の尼時子に一通ずつ計三通の文がありました。

母二位の尼時子にあてた手紙には、

「よくよく三種の神器のことをご配慮ください。
そうでなければ、この世で再びお会いすることは
かなわないと思われます」

「ああ!重衡!」

二位尼時子は泣き崩れます。

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平家一門の会議

平家一門の人びとは寄り集まって、
三種の神器と重衡卿のことについて話し合います。

二位殿時子、言います。

「重衡の文の何と哀れなこと。ここは私に免じて、
三種の神器を都へ返してたもれ」

宗盛は、

「母上はそうおっしゃいますが…帝の権威は三種の神器によってはじめて
保たれるのです。三種の神器を返還すれば帝は帝で無くなってしまいます。
それこそ頼朝の思うつぼです。重衡一人のために一門すべての命を
犠牲になさるおつもりですか」

「では、この世でもう重衡と会うことはかなわぬのかッ!!
重衡が殺されてしまう…!そんなつらい思いをするくらいなら、
今私を殺しなさい!さあ殺しなさい!」

二位殿がおめき叫ぶさまに、一門の人々も涙を流し、
ふし目がちになります。しかし時忠が言います。

「三種の神器を返還したからといって
重衡が返されることはありません。
この際、三種の神器を返還するつもりは一切無いと、
ハッキリと書き送るべきです」

時忠の意見に宗盛も同意しました。

一門の出した答え

法皇への返事には、

「三種の神器は返還いたしません。
三種の神器を持つものが帝です。

そもそもかの頼朝は平治の乱で父義朝が謀反を起こした際
死罪にされるはずだったものを、亡き太政入道清盛の
慈悲によって助けられました。

しかるにその恩を忘れ謀反を企てるなど、
なんたる愚か者。必ずや神罰が下りましょう。

そしてわれら一門の朝廷への度重なる奉公を考えれば、
法皇さまこそ、ここ四国へ御幸なさるべきです。

法皇さまが四国へ御幸なさり安徳帝を帝として仰ぎ奉るなら、
われら一門再び都へ帰り、朝敵頼朝を敵として戦いましょう。

しかし、それがかなわないなら
三種の神器と安徳帝を擁して朝鮮、中国、インドまでも
わたるつもりです」

…法皇への返事には、
このようなことが書かれていました。

重衡、出家を乞う

都にもどってきた使いから一部始終を
知らされた重衡は、

「当然といえば当然です。重衡一人と三種の神器をはかりにかけるなど…
誰が考えましょう。
無様に命乞いをしたりして、どんなにか一門の人びとは
重衡のことを見苦しく思ったことでしょう。
…出家をしたいと思いますが、かないましょうか」

警護にあたっていた土肥実平が義経に伝え、
義経が後白河法皇に伝えます。

後白河法皇は、

「さて出家とな。どうしたものか…」

しかし、後白河法皇の近臣たちは
口々に異論を唱えます。

「とんでもございません!重衡卿は南都を焼き討ちにし、
たくさんの僧を焼き殺した仏敵です。それを捕えてみれば
今度は手の平をひるがえすように、御仏の御慈悲にすがろうなど。
虫がいいにも程というものがございましょう」

「それに、重衡卿の出家を許したとなると、
重衡卿をあれほど憎んでいる興福寺が
どんな報復をしかけてくるか、知れたものではございません」

このような議論がなされ、
最終的に後白河法皇の下した結論は、

「重衡卿の出家は、許可できない」

というものでした。

「では、長年お世話になっている聖に
後世のことを託したいのですが、それは叶いましょうか」

聖とは特定の寺社に属さず諸国を
遍歴したりしている僧のことです。
聖の名を問われて、重衡、答えます。

「東山吉水の法然上人という方です」

法然坊源空

美作
【美作】

法然坊源空は美作国の押領使漆間時国(うるまときくに)の
長男として生まれます。
幼名を勢至菩薩から取って勢至丸といいました。

押領使とは地方の軍事・警察のつかさどる役人です。

美作国の押領使漆間時国の長男として
何不自由無い将来を約束されていたかに見えた勢至丸でしたが、
9歳の時、父漆間時国は荘園管理人の
明石源内定明(あかしげんないさだあきら)に
館を襲撃され、殺されてしまいます。

「父上!必ず敵は討ちますぞ!」

取りすがる勢至丸らに、
父漆間時国は言います。

「ならぬ。勢至丸。よいか、仇討はならぬぞ。
お前が敵に仇討をすれば、その子がお前を恨みに思い、
また仇討をする。そうしてこの世は永遠に憎しみに
満たされる。

それよりも仏門に入って、わしの菩提を弔ってくれ。
そしてお前自身に迷いも消え、救いが得られるように…」

これを機に勢至丸は仏門を志し13歳で比叡山にのぼり、
天台宗の教えを学びます。

法然、比叡山に登る
【法然、比叡山に登る】

しかし当時の延暦寺は権力抗争に明け暮れ、けして純粋に仏教の教えを
追及するものではありませんでした。勢至丸は18歳で比叡山を降り、
高僧たちが集まりより純粋な修行ができる黒谷に移り、この時師より
「法然坊源空」の名を賜りました。

そして経文を読みあさり修行・主学にはげみますが、
法然の求める救いは得られませんでした。

43歳の時、善導「観経疏(かんぎょうしょ)」という書の中に
あった言葉に目が留まります。

弥陀の名号を唱えれば誰でも救われる…

「これだ!」

法然は比叡山を降り、京都東山吉水に庵を結び、庶民や貧しい人たちに
仏教の教えを説くようになりました。

法然の教えは単純明快で、「南無阿弥陀仏」
弥陀の名号を唱えなさい。そうすれば誰でも救われますという、
単純明快なものでした。

また庶民が質問する素朴な疑問にも、とてもわかりやすく答えました。

「上人さま、念仏を唱えていると眠くなって困ります。
どうしたらいいでしょうか?」
「目がさめてから念仏しなさい」

それまでの難解で複雑で、庶民とはかけ離れた仏教の教えとは
一線をかくしていました。
ために庶民からも広く受け入れられましたが、
既存の寺社勢力からは目の敵にされることが多かったです。

「平家物語」に登場する人物も何人かは
法然と深くかかわりを持っています。

「敦盛最期」の逸話で有名な熊谷次郎直実は
法然のもとで出家しています。

木曽義仲の書記として軍師として活躍した太夫坊覚明が
後に法然の弟子になったという説があります。

重衡と法然

吉水に使いが走り、呼び出された法然は、

「いやいや、牛車などは…お心遣い無用に願います。
ほれ、この通り二本の脚がございますのでな」

法然、八条堀川重衡の御堂へ
【法然、八条堀川重衡の御堂へ】

牛車には乗らず、徒歩で八条堀川の重衡のいる御堂にやってきます。

この時法然は51歳、重衡は27歳です。

「上人!」
「ああ重衡殿…」

9歳で父を殺されて以後、さまざまな世の辛酸をみてきた法然も、
あの栄華をきわめた平家御一門の、しかも
清盛にあんなにも可愛がられていた重衡が
今目の前で捕らわれの身となっているのを見て、涙がこみ上げるのを禁じえませんでした。

重衡はまず先年の南都焼討ちのことについて触れ、
焼討ちは自分の指示ではなかったが当時の大将軍であったことで
責任は覚悟していると語ります。

「このように捕えられて恥をさらしておりますのも
すべてその報いでしょう。
受戒して仏門に入りたく思うのですが、それもかなわぬようです。
地獄でどれほどの責めをこうむることか…。
願はくは上人、このような悪人の救われる道が、
もしございますなら、どうかお示しださい」

法然は静かに言います。

「人として生まれながら悪業を重ね、むなしく悪道に陥るのは、
悲しんでもあまりあることです。しかし今、煩悩にまみれた現世を厭い、
浄土にお気持ちが向かっておられますこと、
三千の御仏たちもさぞかし喜んでおられしょう」

そこで法然は重衡に浄土を思い描けるような経文の文句をさずけ、
頭にカミソリをあてる真似をして、受戒、仏教の戒めを受けることで、
仏の弟子となったことの証としました。

重衡はよろこびの涙を流し、硯を一つ持ってこさせ、

「どうか上人、これを重衡を思い出すよすがとしてください」

この硯は清盛が宋の国に砂金を送った際に
そのお礼として贈られたもので
名を「松陰」といいました。

この後重衡は梶原景時に護衛されて鎌倉へ下り、
頼朝と対面することになりますが…

屋島の孤立化をはかる

さて、この間の情勢は…

一の谷の合戦にやぶれた平家軍は四国讃岐の屋島に退きました。

屋島へ退く平家
【屋島へ退く平家】

源氏方としては勝利の勢いに乗って
屋島まで攻め寄せたいところでしたが、人員、食糧、そして船の不足により、
かないませんでした。

そこで頼朝は屋島の直接攻撃をあきらめ、
中国・九州を支配下に置き瀬戸内海の制海権を奪い
屋島を無力化するという大規模な作戦に出ます。

屋島包囲網
【屋島包囲網】

1184年元暦元年9月頼朝は弟の範頼に1000騎を与え
九州に向かわせます。

範頼は山陽道を下り10月安芸に到着。さらに九州に迫りますが、
平知盛に下関を封鎖され、九州にわたるのは困難をきわめました。

山陽道を南下する範頼
【山陽道を南下する範頼】

12月豊後の豪族臼杵党が船団を提供してくれたので
翌元暦2年(1185年)正月、九州にわたることができました。

しかし筑前で平家方の原田種直らに襲撃され、いちおうは撃退したものの
以後九州戦線は一進一退、膠着状態になります。

原田種直の襲撃
【原田種直の襲撃】

無断任官

一方紀伊半島では元暦元年(1184年)7月、
伊賀・伊勢両国で平家の残党が反乱を起こします。

1184年(元暦元年)伊賀・伊勢 三日平氏の乱
【1184年(元暦元年)伊賀・伊勢 三日平氏の乱】

義経は頼朝からこの反乱鎮圧を命じられ、1週間あまりで鎮圧します。
「三日平氏の乱」とよばれる事件ですが、この事件の後、後白河法皇は
義経を院の御所に召して、

「こたびの働き、見事であった。よって
そのほうを検非違使・左衛門尉に任ずる」
「ははっ!」

この時義経は頼朝に無断で、
直接法皇から位を授かりました。
このことが後々の頼朝との対立の火種となるわけですが…
しかし義経はそんなことは考えず、さらにマズイことをしでかします。

「九州に向かった兄範頼が苦戦していると聞きます。
私に平家追討をお命じください」

頼朝を通さずに直接後白河法皇に願い出て、
義経は平家追討の院宣を下されます。

これを知った鎌倉の頼朝は怒りにふるえます。

「うーむ九郎…なんたる勝手!」

しかし西国の戦況は膠着状態にあり、
さしあたっては義経の戦の腕を利用する他ありませんでした。

1185年(元暦2年)正月10日、
義経軍は平家追討のため京都を発し西国へ向かいます。

1185年(元暦二年)義経、西国へ出発
【1185年(元暦二年)義経、西国へ出発】

≫次章「逆櫓」



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