三草山合戦

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寿永3年正月21日、木曽義仲の一党が琵琶湖湖岸粟津の戦いで滅びます。
同29日、後白河法皇は範頼、義経両名に院の御所六条西の洞院にて
平家追討の院宣を下します。

「すぐに西国に下り、平家一門を追討せよ!」
「ははっ」

三種の神器

その時、後白河法皇が付け加えます。

「わが国には神代の昔より伝わる三つの宝物がある。
平家追討とともに、この三種の神器を、かならず奪回するように」

三種の神器。草薙剣(くさなぎのけん)、八咫鏡(やたのかがみ)、
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、神話の時代から現在まで伝わる三つの宝物です。
今上天皇も昭和64年1月7日昭和天皇の崩御にともない
「剣璽等承継の儀」(けんじとうしょうけいのぎ)で践祚されました。
(「剣璽」は草薙の剣と八尺瓊勾玉をあわせた言い方)
この時、今上天皇の前に草薙の剣と八尺瓊勾玉とを置いた箱が置かれました。

もっとも現在皇居にある三種の神器は大昔から伝わっている
オリジナルではなく、「形代」といってオリジナルの霊力をこめて
かたどりしたものです。

箱に入っていて、天皇すら見ることは許されていません。
だから中を確認することはできません。コッソリ中を覗いた人が
たちまちに目がつぶれた、なんて話も残っています。

オリジナルの三種の神器は現在、草薙の剣は熱田神宮に、
八咫鏡は伊勢の神宮に、
八尺瓊勾玉は皇居の天皇の寝室の隣・剣璽の間に保管されているということです。

しかし、いずれも確認する方法はありません。

草薙の剣の由来

草薙剣、八咫鏡、八尺瓊勾玉、
それぞれに言われがあります。

たとえば草薙の剣は、もと天叢雲剣と言いました。神話の昔、
スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した時に、
ヤマタノオロチの尾から出てきたといいます。

ヤマタノオロチの頭上にはいつもどよどよと雲がかかっていたので
「天叢雲剣」と名付けられました。

12代景行天皇の時代、
景行天皇の皇子日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征するにあたって、
叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)より天叢雲剣を授けられます。

しかしヤマトタケルノミコトは東征の途上、
相武国(さがむのくに)の草原で敵から火を放たれます。

「もはやこれまで…はっ!そうだ。叔母上からいただいた
剣と火打石があったな。ええい一かばちか!」

ヤマトタケルノミコトが剣をふるうと草が薙ぎ払われ、
さらに火うち石で向かい火を放って敵を焼き殺しました。

ここから「天叢雲剣」あらため「草薙の剣」となり、その土地の名を「焼津」としました。
ヤマトタケルノミコトの死後、剣は熱田神宮におさめられます。

38代天智天皇の時代、668年新羅の僧道行によって盗み出されますが、
道行を乗せた船は嵐にあって難破。
剣は日本に戻り、宮中であずかることとなります。

しかし40代天武天皇が病にかかったとき、
これは剣の祟りだということでふたたび熱田神宮に戻されました。

…これらは「古事記」「日本書紀」に見える草薙の剣にまつわる
物語ですが、ほかの二つの宝物にもそれぞれ物語があります。

範頼、義経、一の谷をめざす

一の谷は東に清盛が築いた福原があり、
北はすぐに山、南はすぐに海、
東西12キロにわたる細長い地形です。

東の入り口である生田の森、
西の入り口である塩屋口、
北の入り口である夢野口、

この3か所を塞いでしまえば
敵は入ってこれないという天然の要塞でした。

よって、源氏軍にとってはいかにこの
三点を攻めるかが鍵となります。

1184年(寿永3年)2月4日~7日 三草山合戦~一の谷まで
【1184年(寿永3年)2月4日~7日 三草山合戦~一の谷まで】

寿永3年2月4日、
蒲冠者範頼、九郎判官義経両大将軍の率いる軍勢は、
京都から大手、搦手二手に分かれて出発します。

1184年(寿永3年)2月4日 範頼・義経 京都を出発
【1184年(寿永3年)2月4日 範頼・義経 京都を出発】

大手の大将軍蒲冠者範頼五万騎は山城から摂津に入り、
一の谷の東の入口、生田の森を目指します。

一方、搦手の大将軍九郎判官義経一万騎は丹波路を大きく迂回し、
一の谷の西の入り口、塩屋口を目指します。

両軍は2月7日に一の谷の東西の入口から
一気に総攻撃をかけようとしめしあわせて京都を出発します。

1184年(寿永3年)2月7日までの想定ルート
【1184年(寿永3年)2月7日までの想定ルート】

翌5日、範頼軍五万騎は津の国こやのに到着します。
義経軍一万騎は通常なら二日で行く距離を一日で飛ばし、
やはり5日に播磨と丹波の堺・三草山の東口小野原に到着します。

一方、義経軍を迎え撃つ平資盛・有盛らの平家軍3千騎は
小野原より三里へだてた三草山の西口に陣を取ります。

1184年(寿永3年)2月5日 範頼、こやのへ。義経、小野原へ。
【1184年(寿永3年)2月5日 範頼、こやのへ。義経、小野原へ。】

義経軍、夜討ちを決行

5日の夜、義経は配下の武将たちを集めて軍議を開きます。

「平家軍は三草山の西口に集結している。
今夜夜討ちにするか、それとも明日の戦か」

1184年(寿永3年)2月5日夜 義経は三草山の東口に。資盛は西口に。
【1184年(寿永3年)2月5日夜 義経は三草山の東口に。資盛は西口に】

配下の武将田代冠者信綱が言います。

「明日を待てば平家軍には増援が到着するでしょう。
今なら味方一万に対し敵三千。たやすく勝利できます。
夜討ちすべきです」

こうして夜討ち決行となりますが、
山中のことで、周囲は真っ暗です。
どうやってこの暗闇を進むのだ?配下の武士たちが
困っているところへ、

「火を放てッ!!」

そこらの民家に火を放ち、草にも木々にも火を放ち、
ゴォーーと派手に燃え盛る明るい中、義経軍は三里の行程を
ゆうゆうと進軍しました。

平家軍の大将平資盛はこの年23歳。嘉応2年(1170年)平家全盛期、
鷹狩の帰り道に摂政藤原基房の車と向かい合った際、
下馬の礼を取らなかったため、摂政の車を警護する役人たちが怒り、
資盛一行を蹴ったり殴ったり、さんざんな仕打ちを加えました。

これに怒った父重盛が後日摂政藤原基房の車を襲撃させたという、
「殿下乗合」事件の発端となった人物です。

後に、建礼門院の侍女で年上の女流歌人
右京大夫と恋仲になります。

右京大夫があらわした
「建礼門院右京大夫集」は資盛との歌のやり取り、また
平家一門の人々のことが女性の目から語られ、「平家物語」とはまた
違った味わいがあります。

風流を好む貴公子といった感じで、
戦にはあまり向いていなかったようです。

この日の三草山合戦でも、
「戦に寝不足は禁物である。明日の戦にそなえ、よく寝ておけ」
そんな呑気なことを言って、平家軍は鎧甲を枕に寝ていました。そこへ、

ワーーッ、ワーーッ

深夜、突如時の声が響き、不意をつかれた平家軍は
さんざんに打ち破られ、500騎ばかりを討たれてしまいました。

大将軍平資盛は、
「ふがいない!なんと我はふがいないのであろう」などと言いながら
播磨国高砂より舟に乗り、讃岐屋島平家の本陣に逃れます。

1184年(寿永3年)2月5日夜 平資盛敗走
【1184年(寿永3年)2月5日夜 平資盛敗走】

寿永3年2月5日深夜におけるこの三草山合戦が
一の谷の合戦の前哨戦となりました。

≫次章「一の谷への道のり」

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