をかしげなる猫

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原文

三月つごもりがた、土忌みに人のもとに渡りたるに、桜さかりにおもしろく、今まで散らぬもあり。かへりてまたの日、

あかざりし 宿の桜を春くれて 散りがたにしも 一目みしかな

といひにやる。

花の咲き散るをりごとに、乳母(めのと)亡くなりしをりぞかし、とのみあはれなるに、々をり亡くなりたまひし侍従の大納言の御むすめの手を見つつ、すずろにあはれなるに、五月ばかり、夜ふくるまで物語をよみて起きゐたれば、来つらむ方も見えぬに、猫のいとなごう鳴いたるを、おどろきて見れば、いみじうをかしげなる猫あり。いづくより来つる猫ぞと見るに、姉なる人、「あなかま、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり。飼はむ」とあるに、いみじう人なれつつ、かたはらにうち臥したり。尋ぬる人やあると、これを隠して飼ふに、すべて下衆のあたりにも寄らず、つと前にのみありて、物もきたなげなるは、ほかざまに顔をむけて食はず。姉おととの中につとまとはれて、をかしがりらうたがるほどに、姉のなやむことあるに、もの騒がしくて、この猫を北面にのみあらせて呼ばねば、かしがましく鳴きののしれども、なほさるにてこそはと思ひてあるに、わづらふ姉おどろきて「いづら、猫は。こち率(い)て来(こ)」とあるを、「など」と問へば、「夢にこの猫のかたはらに来て、『おのれは侍従の大納言の御むすめの、かくなりたるなり。さるべき縁のいささかありて、この中の君のすずろにあはれと思ひ出でたまへば、ただしばしここにあるを、このごろ下衆の中にありて、いみじうわびしきこと』といひて、いみじう泣くさまは、あてにをかしげなる人と見えて、うちおどろきたれば、この猫の声にてありつるが、いみじくあはれなるなり」と語りたまふを聞くに、いみじくあはれなり。その後はこの猫を北面にも出ださず思ひかしづく。ただ一人ゐたる所に、この猫がむかひゐたれば、かいなでつつ、「侍従の大納言の姫君のおはするな。大納言殿に知らせたてまつらばや」といひかくれば、顔をうちまもりつつなごう鳴くも、心のなし、目のうちつけに、例の猫にはあらず、聞き知り顔にあはれなり。

語句

■土忌み 陰陽道で地の神の土公神(どくじん)のいる方向を侵して工事などをするのを避けること。やむなく避ける場合は、一時的に居住区をうつした。 ■あかざりし家 わが家のこと。 ■手 手蹟。 ■すずろに わけもなく。むやみに。 ■なごう 「和(なご)く」の音便。穏やかだ。柔らかだ。「長い」という意味は無い。 ■おどろきて 目が覚めて、はっと気づいて。 ■をかしげなる 可愛らしい。 ■あなかま 静かにして。「あな」は感動詞。「かま」は形容詞「かまし」の語幹。 ■下衆 使用人など身分の低い者。 ■つと じっと。 ■前に 私たちの前に。 ■姉おととの中 私たち姉妹の中。「おとと」は「弟」。性別に関係なく年下の弟・妹をいう。 ■つとまとわりて ぴったりまとわりついて。 ■らうたがる かわいがる。 ■なやむこと 病気にかかったこと。 ■もの騒がしくて 姉の看病のために家の中がなんとなくソワソワしている状態。 ■北面 北側の部屋。寝殿造りで、南側の部屋は客間で、北側の部屋は内々の部屋として使用人や侍女が使った。 ■なほさるにてこそ 自分たちにはわからないが、猫には鳴くだけの事情があるのだろうという理解。 ■など どうして。 ■さるべき縁 こうなるべき前世からの因縁。 ■中の君 次女。ここでは孝標女。下に妹がなくても言う。 ■あてに 高貴に。 ■かしづく 大切にする。 ■心のなし 「心の為し」。気のせいか。 ■顔をうちまもり 私の顔をじっと見つめて。 ■目のうちつけに ちょっと見たところでは。「うちつけ」は深く考えないかりそめの様子。

現代語訳

三月の末頃、土忌みに人の家に移ったところ、桜のさかりで趣深く、今まで散らないものもある。わが家に帰ってきて次の日、

馴れ住んだわが家の桜を春が暮れて散る頃に、一目見たことだなあ。

花の咲き散る時節ごとに、乳母が亡くなった時期だと心がふさぐことであるのに、同じ時期に亡くなられた侍従の大納言の姫君の手習いの跡を観つつ、なんとなく心が沈んでいたところ、五月ごろ、夜ふけまで物語を読んで起きていたところ、どこから来たかもわからないのに、猫がたいそうノンビリと鳴いたのを、はっと気づいて見れば、たいそうかわいい猫がそこにいた。

どこから来た猫だろうと見ると、姉である人、「静かにして。人に聞かせてはだめ。たいそうかわいらしい猫だこと。飼いましょう」と言うので、かたわらに猫を寝かせた。

尋ねてくる人があるだろうと、これを隠して飼っていたところ、まったく召使などのもとには立ち寄らず、じっと私たち姉妹の前にばかり座っていて、食べ物も汚いのはよそに顔をそむけて食べない。

私たち姉妹の中にぴったりまとわりついて、可愛がり愛でているうちに、姉が病気にかかったことがあって、家の中が看病でなんとなくざわついているので、この猫を北面に追いやって呼ばないでいると、うるさく鳴きさわぐけれど、猫には猫なりの事情があるのだろうと思っていたところ、病気の姉が起きだして、

「どこ、猫は。こっちに連れてきて」というので、「なぜ」と尋ねると、「夢にこの猫が私のそばに来て、「私は侍従の大納言の姫君が、こうなったものです。しかるべき前世からの縁があって、あなたの妹さんがしきりに私のことをあわれに思い出してくださるので、ほんのしばらくここに住んでいたのを、このごろは召使部屋に追いやられて、たいそう侘しいことです」といって、ひどく泣く様子は、高貴に美しい人と見えて、はっと目をさましたところ、この猫の声であったのが、たいそうあはれなことです」とおっしゃるのを聞くに、たいそうあはれなことである。

その後はこの猫を北面にも出さず、大切にお世話した。私がただ一人いる所にこの猫が向かい合っていると、かきなでつつ、「侍従の大納言の姫君でおはしますね。大納言殿にお知らせしないといけませんね」と言葉をかけると、私の顔をじっと見つめながら、なごやかに鳴くのも、気のせいか、ちょっと見たところ、並大抵の猫ではない感じで、私の話を聞き知っているような顔に見えて、しみじみ愛しいことだ。

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解説:左大臣光永

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